「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2013年03月19日

浮かれ騒ぐ(主にディアスポラの)ナショナリズムのその背後で、「消え去っていない」あの影のノイズ

3月17日の「セント・パトリックの日」のお祭りは、アイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックを記念する、というより春の到来を祝う恒例行事である。今年は17日が日曜日に当たり、金曜日の15日からずっとだらだらと続いていたのだが、毎年恒例の「政治トップによる米国ツアー」もだらだら続いていて、メインの「米国大統領との会談」はまだ行われていないようだ。北アイルランド自治政府副首相のマーティン・マクギネスは訪米前にブラジルを訪れた際に、聖パトリックの日のシンボルカラーである緑色でライトアップされたリオのあの巨大なキリスト像と一緒におさまった写真をツイートするなどしていた。

この「セント・パトリックの日」の行事は、いろいろあってアイルランド島を離れざるを得なかったディアスポラの人々が、故郷を懐かしみ同郷の人々と一緒に楽しく過ごすために盛大に祝われるようになったもので (the first parade held to honor St. Patrick's Day took place not in Ireland but in the United States. On March 17, 1762, Irish soldiers serving in the English military marched through New York City. Along with their music, the parade helped the soldiers reconnect with their Irish roots, as well as with fellow Irishmen serving in the English army)、アイルランド島の中より外のほうが「バカ騒ぎ」の度が高い。個人的には「川を緑色にする」とか「ビールも緑色にする」とかいった騒ぎには何ら魅力を感じないし、さして興味も抱けないのだが、そういうのが「一般的なイメージ」としてウケるらしい。んで、アメリカでのそういうバカ騒ぎの中で「ハンストで死んだIRAのテロリストを讃えるバナーがんがんがんが!!!」的な憤慨の声が漂ってくることも毎年のことだ。

しかし、今年は「毎年のこと」と言っていられないくらいに、ノイズが多い。

BBC News NIでは、お祭り翌日の18日(月)のニュースだが、Sandy Rowでロイヤリストが集まってちょっとあったときに警官が負傷したという件がトップニュース。また、オマーではロイヤリスト側の「旗騒動」の影響で、聖パトリックのパレードがルート変更を余儀なくされたというニュースもある。さらに、"IRA Twitter photo" のニュースと、"Footballer in 'IRA row'" のニュース。本稿では、これら2件を少し詳しく見る。



まずは「写真」の件。
IRA Twitter photo was 'child abuse'
18 March 2013 Last updated at 18:14 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-21830070

おでこに「IRA」という文字が書かれた女の子の写真が17日に撮影され、ツイートされた。撮影地点はベルファストのホーリーランド地区(クイーンズ大の学生が多い学生街)と思われるが、この写真について警察に届けたSDLP所属の自治議会議員、コナル・マクデヴィットが「児童虐待」だと述べている、という記事。

「児童虐待」という表現の強さに面喰ってしまうが、別な言い方をすると「こんなことをするとは、犯罪行為だ」となろう。マクデヴィットが言っていることの意味は、実際にその写真を見ればわかる。

女の子は花柄のセーターを着て、セロファンを巻いた赤い薔薇の花を一輪持って、にっこりと笑っている。額には「IRA」の文字が、頬には二本の線が、濃い緑色のインクで書かれている。隣に1人、別の人がいるようだが、よくわからない。


※画像は必要な部分以外は加工してある。

この女の子の顔立ちや髪の色、そして何より、手に持っている花。

BBC Newsの記事を見る限り、最初にこの写真をツイートした人物 (@De******) は、写真をツイートするときに「花売り」と強く結びついている民族集団について差別的な言葉を添えていたようだ。

(本人は、この写真が「騒ぎ」になって手に負えなくなったことを認めたあと、そのツイートを削除して「昨日はバカな真似をしてすみませんでした」と反省の弁をツイートしている。むろん、本人がツイートを削除したところでいったんネットに流れた写真が消えるわけではない。BBC Newsでコメントが取り上げられているコナル・マクデヴィットも、人から「こんなひどい写真が」と回ってきたので気づいたようだ。)

アップ主は、別の人に「女の子のおでこに文字を書いたのはあなたですか」と訊かれ、「いいえ。来たときには既に、おでこにあれが書かれていました」と回答。別の人から「誰があんなことを書いたのかわかったら、きっちり対応してください」と念を押されて、「もちろんです。あんなひどいことをするなんて、誰の仕業か把握してたら、と思います」と回答。



次。「フットボーラー」の件。
Footballer Shane Duffy denies posting IRA message on Twitter
18 March 2013 Last updated at 12:13 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-21830064


エヴァートンFCでプレイするシェーン・ダフィが、IRA支持のメッセージをツイートしたという件。本人は「自分がやったのではなく、誰かが自分の電話を勝手に触っていたずらした」と述べているが、エヴァートンFCのサポの子がIRAの爆弾で理不尽にも命を奪われたウォリントン爆弾事件の20周年記念の週末にこんな、ねぇ……。仮に本当に誰かにいたずらされたのだとしても、そんないたずらがおもしろいと思ってるような友達とは縁を切った方がいいと思う。



見事に何ら弁解の余地のない「IRA支持の文言」。一緒に飲んでた誰かがいたずらしたのだろう、と思いたいところだが、下記のようなRTをそのままにしているようでは、ちょっと……。



本人の「誰かに勝手にやられました」という弁解は、上記のRTのあとになされている。



これは、クラブが調査して、罰金なり何なりについて判断することになる。

シェーン・ダフィはまだ21歳の若いプレイヤーで、自身は「紛争」はろくに知らない世代だ。ただ、10代のときは北アイルランド代表としてプレイしていたのが、2010年にアイルランド共和国代表に「鞍替え」した(それもIFAがスポーツ仲裁裁判所に訴えるという沙汰のあげく)ことで「ユニオニスト」の側から「敵視」されている。出身はデリーだ。

そういったことをすべて考えても、「あっぷ・ざ・ら」には何ら弁護、弁解の余地はない。

BBC記事にあるが、先日、ジェイムズ・マクリーンがウルフ・トーンズの楽曲が好きだとTwitterで述べて騒動になった。それは畢竟、「アイルランドの歴史をどう見るか」という歴史観の問題であり、ユニオニストの側が「攻撃」材料としているのはそれ自体が極めて政治的な行為だ。一方で「あっぷ・ざ・ら」にはそのような「解釈の幅」は存在しない。ど真ん中の「IRA支持」である。

※この記事は

2013年03月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:00 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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