「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年03月17日

ベルファストのアラートがどうなったか/ウォリントン爆弾事件から20年目に、「対話」ということ

(日本時間で)金曜日から土曜日にかけてのベルファストのアラートの件であるが、現地で土曜日の昼間までアラートが続いたあと、警察が参考人的な人物をとりあえず2人特定するという段階までは進展したようだ。爆発物(武装勢力お手製の迫撃砲)は「発射に失敗した」状態で、水曜早朝に非番の警官が発見したものだという。

ほかにもプロテスタントが圧倒的多数であるニュータウンアビーの町にあるカトリックの教会にアラートが出ていたが、これはhoaxと確定した。この同じ教会では何日か前にも同じようなことがあった。

そんなこんなだが、3月17日はアイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックの日で、(現在では)宗派の区別なく「アイルランド全体のキリスト教のお祭り」として仮装パレードなどが行われる(アメリカやオーストラリアなど、アイリッシュ・ディアスポラのお祭りとして行われるのとは、若干、トーンが違うかもしれない)。今年はプロテスタントのビリーさんは「ユニオン・フラッグ」の旗騒動から聖パトリックの日へとはしごするようで、何だかなあ、というか、今日はスコットランド系の旗騒動の煽動者とかはどうしているのかなあと思ったりもする。

一方で、「シン・フェインのチーフ・ネゴシエーター」だったこの人は、やっぱりすごい。




20年前の1993年3月20日、イングランド、リヴァプールの東、マンチェスターまで行く中間地点くらいにあるウォリントンという町で、IRAのボムが炸裂して、何十人もが負傷させられ、3歳のジェイムズと12歳のティムが理不尽にも生命を奪われた。IRAの「メインランド爆弾作戦」の中でもひときわ「意味」のわからないウォリントン爆弾事件。

なぜIRAの標的になるのかもよくわからないような地味な地方都市で、息子のティムをそんな形で奪われたパリー夫妻はその後、「紛争と和解」を研究しそのために取り組むNGOを立ち上げた。バルカンなど「北アイルランド」とは別の文脈のコンフリクトについても「ともに考えましょう」と関連しているこの方々の活動は、徹底した「対話」にベースがある。そしてその「対話」ということの意味と価値をおそらく一番わかっていて、一番推進しているのが、マーティン・マクギネスだ。パリー夫妻がマクギネスといかによい関係を築いたかを語った記事がミラーにある。「復讐」ではなく「無念を晴らす」ことではなく、「対話」を。
http://www.mirror.co.uk/news/uk-news/warrington-bomb-attack-20-years-1766742

ウォリントン爆弾事件の20年追悼式典は、16日(土)に行われた。いかにも歴史ある街の中心のサークルへとつながる歩行者専用道路の爆弾が仕掛けられていた現場(今はモニュメントが作られている)に椅子が並べられ、最後はこれまでの歳月を表す20個の風船が空に放たれた。

ジェイムズ・ボールは、生きていれば23歳。ティム・パリーは32歳。

「和解と赦し」――20年前、商店街のゴミ箱に設置されたIRAのボムは、子供たちを殺した。
http://matome.naver.jp/odai/2136343869722454301


See also:
2007年09月11日 誰かの「テロ」/「私」
http://nofrills.seesaa.net/article/54943067.html

※この記事は

2013年03月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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