「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2013年03月04日

デリーで非常にきわどい事態(警察が止めた車の中から迫撃砲4発)

デリーで大変に深刻なセキュリティー・アラートが出ている。経緯は下記に「まとめ」てあるのだが、結論だけいうと、デリーのナショナリストのエリアで警察によって止められたヴァンの中から、迫撃砲4発が見つかった。そのヴァンは、屋根の部分に改造が施されており、迫撃砲はすぐに攻撃に使える状態だった(つまり、1991年のダウニング・ストリートの攻撃と同様だろう)。標的はデリーのPSNI(警察)拠点と思われる。車を運転していた人物、後続のバイクの人物と、もう一人この地域の人物が警察に逮捕された。2人は30代との情報を見た。1998年和平合意のときに20代前半だった世代(94年停戦では20歳そこそこか10代)か。

2013年3月3日夜、デリーのセキュリティ・アラート(北アイルランド)
http://matome.naver.jp/odai/2136236011713047701


これが、BBC News Northern Irelandだけではなく、BBC News UKでもほぼトップ扱いになっている。



むろん、警察が阻止に成功したということは、簡単に言えば「情報があった」、「正確な情報が警察にもたらされた」ということだろう。

ここで思い出されるのは、PIRAがブライトン爆弾の時に出した声明だ。「今回は(メインの標的を)逃したが、覚えておいてほしい。われわれにはたった一度ツキがあればよい。一方そちらは毎回毎回ツキに恵まれなければならない」。

3日にデリーで見つかった迫撃砲は手製のもので(つまりどこかから完成品を調達してきたわけではない)、模試爆発していれば大勢の死傷者が出ただろうと警察では述べている。

一方で、ほんの3,4日前には、ベルファストで(やはり情報がもたらされた結果)、RPG7が見つかっている。

【IRA】ベルファストで、ソ連製RPG(ロケットロンチャー)が発見された。
http://matome.naver.jp/odai/2136205426454236901


※この記事は

2013年03月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:10 | TrackBack(1) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

「武装活動の停止」から10年になろうとするときに、まだ細々と続いている武装活動のニュース。
Excerpt: 北アイルランドからは1週間に1〜2件は必ずボムスケアのニュースが聞こえてきているが、今日のベルファストでは「えっ」というところでボムスケアが発生している。 Tape & techni..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2015-02-25 23:37

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。