フィクション映画、Shooting Dogs(邦題は激甘の『ルワンダの涙』)を見てきた。
http://www.bbc.co.uk/bbcfilms/releases/shootingdogs.shtml
http://www.r-namida.jp/index.html
http://www.imdb.com/title/tt0420901/
http://www.eurovisioni.it/Inglese/shooting%20dogs%20UK.htm
東京では六本木ヒルズの「TOHOシネマズ」でやっているほか、立川でも10日から上映が始まっている。東京圏以外でも2月中から3月にかけて上映が始まる。詳細は『ルワンダの涙』公式サイトの「劇場情報」を参照。
1994年、ルワンダの首都キガリ。ルワンダ人の身分証にはフツとツチの別が記されている。公立技術学校(L'Ecole Technique Officielle)で英語教師をしているジョー・コナーは英国人、たぶん20代(LFFのストーリー解説によると、ギャップイヤーでルワンダに来ているとのこと)。甘いマスクの彼は愉快な授業で生徒たちの人気者、俊足の女子生徒マリーは彼に恋心を抱いているらしい。校長を務めるカトリック教会のクリストファー神父も英国人で、アフリカでの活動は30年に及び、ルワンダ人と極めてよい関係にある(タヌキ親父の政治家とも表面的な友好関係を築いている)。BBC記者のレイチェルは「紛争」の始まりを記者として見ており、「これはジェノサイドだ」と確信している。公立技術学校には国連平和維持軍の一部としてベルギーの部隊が駐屯している。部隊のトップのシャルル・デロン大尉は、軍人として、命令を遵守することに最も重きを置いている。
4月6日、大統領の乗った飛行機が墜落、大統領(フツ)は死亡。これをきっかけとしてフツによるツチへの暴力がエスカレートする(「連中が我々の大統領を殺した」)。公立技術学校には、近隣に住む白人(ヨーロッパ人)数十人と、ツチの人々数千人が避難してくる(校長たるクリストファー神父が強い意志でベルギー軍の隊長を説得し、彼らを校内に受け入れた)。
学校の門のすぐ外ではフツの民兵団がツチの人々を殺し、死体を放置している。その死体を野犬が食う。シャルル大尉はクリストファー神父に「このままでは衛生状態が悪化するので野犬を撃つ。銃声がするが心配しないようにとみなに説明をしてもらいたい」と告げる。死体を食う野犬なら撃てるという国連軍。なのにその死体を作り出している(人間を殺して死体にしている)民兵には何もしない、というかできない。彼らの任務は「平和の監視」であり、自衛のためを除いては銃火器の使用はできない。
事実を元にしたフィクションである、ということを前提として見るべき映画だ。それでも、事実の重さとフィクションの力強さという双方の長所を感じさせるという点では、この映画はぐっと来た。別な言い方をすれば、単に「おもしろい映画」だった。未曾有の「悲劇」を背景としたフィクションとして、よくできていた。
重要な役割のルワンダ人の少女、マリーを演じていた女優さんが、どこかで見た人だと思ったら、Children of Men(邦題『トゥモロー・ワールド』)の彼女か。Children of Menでは彼女の宿した「奇蹟の子」は守り抜かれる。『ルワンダの涙』では彼女は子供を宿しはしないけれど、別の女性が苦境の中で生んだ赤ん坊が出てくる。そして/しかし・・・なんてことを、帰宅してからIMDBを見て思った。
※以下、だらだらと書いていますが、若干ネタバレになるところがあるかもしれません。
映画はほとんどすべてが英語で進行していく。そしてその「英語」にははっきりとした理由がストーリーとして与えられている。これが、この映画を成功させている大きな要素だ。つまり、映画の主人公は英語でしか世界を認識できない。その限界の中でただ「目撃」してゆく。彼の歯がゆさは、おそらく、この映画のプロデューサーであるデイヴィッド・ベルトン(1994年5月にNewsnightの取材チームの一員としてルワンダに入っていた)の歯がゆさでもあろう。
ルワンダのジェノサイドといえば、昨年日本で話題を呼んだ『ホテル・ルワンダ』という映画があった。英語メディアでのレビューでも『ホテル・ルワンダ』と『ルワンダの涙』の比較が多く出てくる。
その路線に乗っかって、あえて無邪気に比較すると、ルワンダ人との会話でも、ベルギーとの連絡の時でさえも「ルワンダ訛りの英語」を使うルワンダ人(これは「アメリカで公開する映画」だからだとしか思えないが)を主人公とした『ホテル・ルワンダ』より、『ルワンダの涙』のほうが映画として根本的に真面目だと私は思う。
「音」の扱いもそうだ。『ルワンダの涙』における「陽気なアフリカのリズム」やホイッスルの音の存在の怖さといったら!(喩えが変かもしれないけど、のどかな「アイリッシュ・トラッド」にしか聞こえない楽曲の歌詞をよく聞き取ってみたらIRAの血なまぐさいプロパガンダでした、というときのショックに似ているかもしれない。)
「あの時何が起きていたのか」、「誰があの殺戮を実際に行なったのか」の描写も、『ホテル・ルワンダ』よりも『ルワンダの涙』のほうが力強い。2つの映画のやろうとしていたことが異なっているだけだと思うが、『涙』では誰がAKをぶっ放し、誰が鉈を振り下ろしていたのか、それが「顔」を伴って描かれている。
『ホテル・ルワンダ』では、民兵たちは「金と権力が欲しい利己的な汚い商売人」が操る「群集」として、物語の遠景に提示されたに過ぎなかった。カラシニコフやら鉈やらを持った男たちがどのような「人間」だったのかを、あの映画は語らなかった。『ホテル・ルワンダ』は、北アイルランド紛争の只中にいたテリー・ジョージという人が監督を務めた映画だ。(テリー・ジョージは左翼ナショナリスト系過激派武装組織INLAのメンバーとして逮捕・投獄されている。アメリカに渡った後、グリーンカードを取るのもちょっと大変だったらしい。)にもかかわらずあの映画の中では「彼らの顔」がほとんど提示されていないことに――武装勢力の幹部たちの強欲っぷり、政府当局との癒着っぷりは描かれていたにせよ――、私はひどく落胆した。あれじゃあ「普通の市民が普通の市民を集団として殺すこと」は「不条理」としてしか伝わってこない。『ホテル・ルワンダ』はキャッチコピーそのままに「ひとりの男の勇気の物語」に過ぎないのか。不条理の只中でひとりの男の勇気が多くの人々を救った、というパニック映画の枠組で。
けれども『ルワンダの涙』は違う。ここに描かれている「集団Aによる集団Bへの大規模な暴力」は、1994年のルワンダだけのものではない。映画の暴力シーン(あまり「そのものずばり」ではありませんが)を見ながら、私は一例として、日々伝えられる「イラクでの宗派対立」を同時に重ね合わせていた(安直だが)。むろん暴力の形式は異なる。でも起きていることの本質はほとんど共通しているだろう。そしてそれは旧ユーゴでもあったことだろうし、日本でもあったことだろう。
それから、『涙』の主人公は白人の英国人であり、その点でも黒人のルワンダ人を主人公とした『ホテル・ルワンダ』のほうが優れているとかいった言説を英語メディアで見かけるけれど、それはとても浅い見方だと私は思う。
「実話の映画化」であるはずの『ホテル・ルワンダ』でほとんど見えなかったもの――sectarian violenceというものがどういうものなのか、自分がそこにいたら「笛を吹いて歌い踊りながら鉈を振り下ろす」側にはいないという確信が持てるかどうか、そういうことをちょっとでも考えさせるという点では、『ルワンダの涙』の「英語しか理解できない、現地のこともほとんどわかってない白人の青年が目撃する」という「装置」は、逆に有効だ。たとえば、部外者の白人だからこそ、彼は学校の敷地を出てキガリの街を見て回ることができた。そういう「装置」があってはじめて描写できる何かがある、ということを、この映画を製作した人たちはわかっているのだと思う。
ていうか、私自身の視点は「白人」の視点と同じだと思うしね。
さて、昨年、この映画が英国で公開されたとき、ガーディアンでこの映画に対する「事実とあまりに異なる」という批判が掲載された。これを日本語化されているGomadintimeさんのブログから引用:
ストーリーの中心となるのは公立技術学校(ETO)における虐殺で、ここに駐留していたベルギーの平和維持部隊は、ベルギー政府の命令を受け、全居留外国人の慌ただしい退去に手を貸すため、数千人を見捨てた。
あるBBCのジャーナリストはこの学校におり、去ろうとする平和維持部隊に異議を唱え、起こっている事態を描くのにジェノサイドという語を使っている[、というシーンが映画にある]。
だが、これはフィクションである。ETOにBBCの撮影班はいなかった。決定的に重要なジェノサイド最初の数週間、ルワンダにBBCの撮影班はいなかった。BBCニュースはジェノサイドが進行中であると世界に伝えてもいない。1994年4月、虐殺が起こると、BBCは居留外国人の退去と「部族分派」間の内戦再開をレポートした。……
つまり、いもしなかったBBC記者がある種「ジェノサイドを世界に伝えたヒーロー」的な役回りでそこにいたことになっているという映画をBBCが製作した、何とも手前味噌の映画だ、という批判。おそらくは公開前、この映画が「事実」だという語りが横行していたのに業を煮やしたのだろうと思う。
しかし、実際に映画を見てみると、BBC記者(「レイチェル」というだけでフルネームでは出てこない)とカメラマン(私は名前を覚えていない。顔すら覚えていない)は端役だ。現地の人たちと個人的な関わりを持つわけでもない。物語の主人公のジョー・コナーと、彼の目の前で始まっていく「『民族』の分断」と「ジェノサイド」との距離感を、観客に説明するための役回りだろう。(当初、ジャーナリストたちはコナーよりは「ジェノサイド」を肌に近いところのものとして感じている。やがてコナーもそうなっていく。)
映画で、人々が避難してきた学校でBBC記者のレイチェルが「ジェノサイド」という語を使っているのは、学校を「基地」とする国連平和維持部隊(ベルギー軍)のシャルル大尉に「なぜ何もしないのか」という主旨の質問をする場面である。このインタビュー自体がフィクションである。(なぜなら、実際にはBBCのクルーは学校にはいなかったのだから。)で、そういうフィクションをこの映画に入れた意味は、実はよくわからない。私は2006年とか2007年にこの映画を見る観客の視点を取り込んだのではないかと思うのだが(もともとは英語で脚本が書かれていた『硫黄島からの手紙』で「1945年の開明された文化人」たる栗林中将が「歩きましょ、健康のためにも」というせりふを言ってのけるのと同じようなことか?)。
これが「BBCの嘘」として非難されるに値するかどうか――もしも映画の中で、「このレイチェルのレポートが英国で放送されるや視聴者の間に大きな反響が巻き起こり」とか、「レイチェルは英国に戻った後もルワンダの『ジェノサイド』を告発し続け」とかいったように描かれていたのならば、それは「BBCの手前味噌もいいかげんにしておけ」という非難に値するだろう。しかし実際には、彼女とカメラマンは早い段階で物語から消えてしまう。フランス軍が「白人だけ撤退」させたときに、BBCの2人はトラックに乗って行ってしまうのだ(『ホテル・ルワンダ』でホアキン・フェニクスの演じた記者が撤退したのと同様だが、『ルワンダの涙』での「白人だけの撤退」の描き方は無情だ)。コナーとクリストファー神父はその後もベルギー軍と一緒に留まる。(しつこいが、コナーもクリストファー神父もフィクションである。)
「BBCのジャーナリスト魂」的なシーンでひとつ印象的だったものに、学校のトラックを使ってコナーと一緒に市内の様子を見に行ったレイチェルとカメラマンが虐殺された一家の死体を見つけて撮影するシーンがある。これは、「あの時あの場所で」という点ではおそらくフィクションなのだろう。ジャーナリストが何をするのかを映像で説明した(ように私には見えた)あのシーンは、確かに「BBCの手前味噌」ということかもしれない。しかし、「あの時あの場所で」という枠を取り払ったときに、あのようなことは、やはりあったのだろうと思う。それが物語に必要かどうかは議論があるだろうが、主人公の学校の教師が単独で市内を見て回り、途中で虐殺された一家の死体を見て車から降りて呆然と立ち尽くす・・・なんてふうになっていたら、それはそれで「ありえない話」になるだろう。
それから、別のシーンで、レイチェルは旧ユーゴの取材での経験のことを回想し「死体を見たときに、自分の母がこうなっているかもしれないと想像した。でもここでは死体を見ても、ただのアフリカ人の死体にしか見えない」とコナーに語っている。これは明らかに、「BBCの英雄化」にはマイナスだ。「すばらしいBBC」という宣伝のための映画なら、レイチェルにこういうことは語らせない。肌の色になど関係なく、すべての弱い人間に共感を示す、この上もないほどに公平かつ公正な存在として描くはずだ。
そんなことよりも、この映画で強力なのは、BBCの取材陣と一緒に市内に出たコナーが、そこらへんに勝手に検問所を作っているフツの武装勢力(民兵)のなかに誰の顔を見たか、というシーンとかだと思うが。それから、やや裏話っぽくなるが、この映画が実際に「あれ」が起きた場所で撮影されたということも(『ホテル・ルワンダ』の撮影はルワンダではなく南アフリカで行なわれた)。
それから言語のこと。(言語の役割というのがこういうふうに扱われている映画ってのは、それだけで誉めたくなるのだが。)
子供たちに英語を教えるジョー・コナーは、「自分のような者でも何かを変えることができるのでは(make a difference)」と考えて(現地語はまったく理解しないのに!)、「アフリカ」へ――おそらくは「ルワンダ」へではなく――やってきた。だから現地の言語はまったくわからず、地元の人たちの話を通訳してもらうため、常にパトリックという地元の青年を頼っている。
このジョー・コナーという英語話者の若者自体が、かなりの皮肉だ。善意のかたまりで、政治的な活動をしてきたとかいうことでもなく、「恵まれた境遇で何一つ不自由せず育ってきた自分」にもできることがあるはずだと考えて、無色透明というか人畜無害というか、そういう存在である「英語教師」としてルワンダにやってくる。そして生徒たちや親たち(一部は英語を話す)と笑顔でつながる良好な関係を築く。まさに天使のような存在。
「ツチ対フツ」の「民族対立」が、カラシニコフやら鉈やらの関わる流血の大惨事となり、コナーはパトリックに「ツチだのフツだの、そんなくだらないこと、本気にしてんのか?(You don't believe in that sh*t? とかいう感じの台詞)」と言う。パトリックは少し複雑な表情を見せる。
それからもうひとつ。
『ルワンダの涙』は、実際にそれが起きた場所で撮影され、ジェノサイドの生き残りの人たちが裏方として参加している。その裏方のルワンダ人たちのプロフィールはエンドロールで写真を添えて紹介される。その最後の人が、グラスゴーのセルティックのユニを着ている。
セルティックはグラスゴーのアイリッシュの人たち(カトリック)の互助団体のような組織が運営するクラブだ。同じグラスゴーの「ライバル・チーム」であるレンジャーズとの対立は、ただ「サポするチームが違う」というだけではなく、カトリックとプロテスタントの宗派的な対立をもはらんでいる。というか、端的に言えばカトリック系武装組織とプロテスタント系武装組織の対立と切っても切れない関係にあった。
「英国人のカトリックの神父」の存在と、主人公のコナーという名前――たぶんアイリッシュ(<O'Connor)――と、それから英語と現地語の通訳という作業をしているルワンダ人の「パトリック」という名前。映画の登場人物は架空(フィクション)の人物だが、そのフィクションの意味はたぶん、ストーリーの外の「言わずもがな」のこととして、英国では受け取られているだろう。
※この記事は
2007年02月10日
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1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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