kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年01月20日

トルコでジャーナリスト/週刊誌編集長が殺害された。

昨年の10月、トルコの刑法301条――「トルコらしさ、トルコ共和国またはトルコ国会を公然とけなす者は、禁固6ヶ月から3年の可能性」など――で、ある編集長が訴えられた、というニュースがあった。トルコでアルメニア語の週刊誌の編集長をしているHrant Dinkさんだ。

Accused editor sees good side in the law against 'insulting Turkishness'
http://www.armeniandiaspora.com/archive/68433.html

新たに訴えられたアルメニア語の週刊誌の編集長、Hrant Dinkさん(1954年生まれ)らの言葉を引いて、301条による訴追の数々はトルコ国内で本当の民主主義とは何かについての議論を活発化させるものになる、という考えがトルコ国内にあることを説明している記事だ。

Hrant Dinkさんは自身が訴えられたことも、他の文筆家や出版社が訴えられたことも、「トルコにとってよいことだ」と言う。「変化をもたらすためにはよいことだ。内部からの強い動きがある。本当に民主的な動きがあると、今回初めて言うことができる」。

※詳細は過去記事(下記)参照。
http://nofrills.seesaa.net/article/26446721.html

このHrant Dinkさんが、イスタンブールで射殺された。オフィスから出たところを撃たれたそうだ。

Turkish-Armenian writer shot dead
Last Updated: Friday, 19 January 2007, 17:16 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6279241.stm

イスタンブールでは数千・数万単位の人々が抗議の声を上げている。エルドガン首相も「民主主義と表現の自由に対し、銃弾が撃ちこまれた」、「フラント・ディンクへの攻撃は、トルコに対する攻撃である」と非難の声明を出している。

Fury in Turkey at editor's murder
Last Updated: Friday, 19 January 2007, 22:13 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6281193.stm

殺されたHrant Dinkさんは1954年生まれのアルメニア系トルコ人。彼が編集長を務めていたAgosはアルメニア語とトルコ語の週刊誌(週刊の新聞)で、1996年にこのメディアを立ち上げた彼自身が、論説記事を執筆してもいた。
http://www.armeniapedia.org/index.php?title=Hrant_Dink
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6279907.stm
http://en.wikipedia.org/wiki/Hrant_Dink

2005年、1915年のアルメニアの「ジェノサイド」のことを書いた彼は、刑法301条で訴えられて有罪となり(10月)、懲役6ヶ月(執行猶予)を申し渡される。このとき法廷は、Dinkの記事は「批判を目的とした意見の表明ではなく、侮辱と攻撃を意図したものだ」と述べた。そもそも容疑を否認していたDinkはこの判決について「口封じだ」とトルコ語で述べ、「それでも私は沈黙はしない。ここに暮らす鍵地は真実を言い続ける」とテレビで語り、トルコの最高裁に上訴すること、さらに必要であれば欧州人権法廷に訴えることを口にした。

その後、彼は上訴したが、2006年に棄却された。2005年に彼は「判決が覆されないのなら私はトルコを去る」とまで言い(米Time誌の報道では「ここは自分の国なので去るつもりはない」と言っていた、とあるのだが、どっちがどうなのかさっぱりだ)、同時に「私はトルコ人だ」という態度を明確に示した。そして自分の執筆活動は、語られるべきでないこと(タブー)となっていた1915年のアルメニア大虐殺を、アルメニア人とトルコ人の2つの民族の間で語らせるきっかけとなることを目的としている、と述べていた。

ここで、アルメニアについておさらいをしておこう。

アルメニア共和国はトルコの東、グルジアの南に位置する。面積は2万9,800平方キロメートル、人口は321万人あまりの小国だ。地理的条件などから、トルコ、イラン、ロシアといった大国の影響を常に受けてきたが、1918年にアルメニア共和国が成立し、1920年に社会主義政権が成立、1922年にソ連邦結成に参加し、1936年にアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国となる。1991年のソ連崩壊で独立を宣言した。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/armenia/index.html

そして、日本国の外務省が掲載している年表には、「1915年の大虐殺」の項目がない。この不在が何かを物語っているわけだ。

第一次大戦中の1915年当時、アルメニアは一部オスマン帝国(トルコ)の支配下にあった。そして、多くのアルメニア人がアナトリア(トルコ)に住んでいた。

オスマン帝国は多民族・多文化国家ではあったが、19世紀にはムスリムのトルコ人以外の国民(ユダヤ人、キリスト教徒のギリシャ人やアルメニア人など)は、法的差別を受けていた。第一次大戦前の1913年には右派政権(「トルコ人の優越」なみなさん)が成立した。そしてこの後、はっきりとはわかっていないようだが、1914年11月か1915年になってから、アルメニア人(アルメニア系トルコ人)に対する強制移住(というより収容施設送り)や虐殺といったことが行なわれるようになった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Armenian_Genocide

またこのころ、アルメニア人は強い抵抗運動を組織していた。背景にはロシアなど周辺国とオスマン帝国との関係や、宗教の問題もある(イスラム教のオスマン帝国がキリスト教、特にアルメニア正教を信仰するアルメニア人を支配したことからの問題もあれば、オスマン帝国の中での複雑な事情もある)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Van_Resistance

1915年4月24日には、イスタンブールでアルメニア人の知識人たち(政治的なリーダーたち)が捕らえられ、処刑された。下記URLに本からスキャンした10人の顔写真と名が画像で掲載されている。(名は判読不能なほどに不鮮明だが、アルメニア文字が読める人には読めるかもしれない。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:April24Victims.jpg

実に、1916年のアイルランドのイースター蜂起(共和国宣言)の1年前のことである。

虐殺の当時、多かれ少なかれ非介入主義であったはずの米国(1917年の参戦まで中立だった)の外交官らは、強制移住と殺戮が始まるや、次々と本国に自分が目撃したことを報告した。米国からはアルメニアに多額の援助が寄せられた(といっても当時の世界情勢では米国はまだメインプレイヤーとは言いがたいはずだが)。英国では、かのガートルード・ベルが捕虜にしたオスマン帝国軍兵士から聞いた虐殺の様子を本国に伝え、1916年にはジェイムズ・ブライスとアーノルド・トインビーがThe Treatment of Armenians in the Ottoman Empire, 1915-1916という書物をまとめている(これは英国がオスマン帝国と戦争をしていたことから、「戦時プロパガンダの可能性も否定できない」というように扱われたそうだ)。「3B政策」のドイツも、軍人や民間人がさまざまな報告を行なっている。

その後も続いた「虐殺」で命を奪われたアルメニア人は、1918年までに150万人(アルメニアの主張)とも、30万人(トルコの主張)とも言われている。(BBCの記事では、Hundreds of thousands of Armenians died in 1915とあらわされている。)

150万人であろうと30万人であろうと、ぎょっとするような数字である。

現在の問題は、この大量殺戮のことを「システマティックなジェノサイド」であると認めているかどうかだ。トルコ共和国はもちろん認めていない。

そればかりか、国際的にも認めている国と認めていない国がある。何年のデータに基づいているのかがはっきりしないのだが、ウィキペディア記事では、米国(一部の州を除く)、カナダ、ロシア、オーストラリア、アルゼンチン、ウルグアイ、スウェーデン、ポーランド、フランス、イタリア、スイス、オランダ、ベルギー、ウェールズ(<国家の主権はないのだが議会はある)、キプロス(<国家の主権のある方、つまりギリシア側)、レバノンなどが、ジェノサイドだと認めている、と説明されている。
map

米国や英国でも「システマティックなジェノサイド」との位置づけに対する疑問がないわけではないが、米国ではやかましい音楽をやっているSystem of a Down(アルメニア系米国人のロックバンド:ちょっと独特な音楽なので受け付けない人もいるかもしれませんが、last.fmで視聴できます)とか、作家のカート・ヴォネガットが「アルメニアのジェノサイド」をテーマとした楽曲や文学作品を創作している。カナダではアルメニア系カナダ人のアトム・エゴヤンの映画『アララトの聖母』がある。

トルコ人では、昨年のノーベル文学賞を受けた作家のオルハン・パムクをはじめ、作家や文筆家が「あれはジェノサイドだった」と言っている。

19日に殺害されたHrant Dinkもまた、「あれはジェノサイドだった」と書いてきた文筆家のひとりである。

だが彼が「トルコへの侮辱」で有罪となった記事は、アルメニア系のディアスポラに向けて「そろそろトルコへの怒りは忘れてもよいのではないか」と書いた記事だったという。"poisoned blood associated with the Turk" と書いたのがいけなかったそうだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hrant_Dink#Trial

BBC記事によると、エルドガン首相はこの殺人事件に関連して2人を逮捕したと述べたが、後の報道ではこの人たちは釈放されたとのことだ。ガーディアン記事によると、3人が逮捕されたとの報道もあるそうだ。白い帽子をかぶり、ジージャンを着た10代の少年を警察が調べているとの報道もある。

若く過激な右翼少年が「あいつは殺さなければならない」と思い込んで暴走したのだろうか。(オランダのねじくれた新極右指導者のピム・フォルタインの暗殺もそういう感じの事件だったと思う。犯人は少年ではなかったにせよ。)

いや、en.wikipediaの「暗殺」の項を見ると、情報が錯綜していて、今の報道を見てもまだ何ともいえなさそうだ。「銃弾3発というのはトルコのヒズボラだ」という話まで出ている。(デニス・ドナルドソンのときに最初に「後頭部に1発」と報じられ、「後頭部に1発はIRA」なので、三段論法で「あれはIRAの処刑」説が盛り上がったことがあるが、「後頭部に1発」は誤報だった。だいたいその殺し方はIRAだけじゃないし。)

アメリカのTIME誌では、次のように、最近のDinkのことを伝えている。
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1580657,00.html
In an article last week, Dink wrote that he felt "nervous and afraid" because of the intensity of the hate mail and threats he was receiving. "I see myself as frightened, the way a dove might be, but I know that the people in this country would never harm a dove," he wrote.

先週の記事で、ディンクは、自分のところに来るヘイトメールや脅迫があまりにリアルなので、「落ち着かないし、怖い」と書いていた。「私はびくびくとおびえている。これではまるでハトのようだ。しかし、この国の人はハトを傷つけたりは絶対にしない」


アルメニアの虐殺が「ジェノサイド」であったかどうかは、「あれはジェノサイドだった」との主張を重ねてきた人物の殺害とは、本質的に、関係ない。

殺して口を封じるなどということは、是認できることではない。

だが、ここでふと思うのだ・・・刑法301条での訴訟は、トルコの右翼(ナショナリスト)が、トルコのEU加盟を妨害したくて、あえて起こしていたという話があった。

「言論の自由を暴力で封じ込める政治テロ」はどう作用するだろうか。もちろん、EU加盟を促進させはしない。逆だ。

「EU加盟はんたーい」で、チョムスキーの本の翻訳者や出版社を訴えるなどということを右翼の法律家がやっている、と聞いたときは、「茶番!」と呆れたが(そして「外国人が本気で憂うようなことじゃない」と思ったのだが)、今回はさすがに「茶番!」と呆れるだけでは終わらない。自分の中で。

思い出すもの? 決まってんじゃん。アンナ・ポリトコフスカヤだよ。あれから3ヶ月と少し。。。その間に、彼女の名前は別な事件でも出てきたが、彼女の殺害の事件の捜査が進展したという話はまったく聞かない。



The Independentで、ロバート・フィスクが、相当エモーショナルな記事を書いている。

Award-winning writer shot by assassin in Istanbul street
By Robert Fisk
Published: 20 January 2007
http://news.independent.co.uk/europe/article2169190.ece

「インディのフィスク記事」というよりは「テレグラフのアジ演説」という雰囲気の文章だ。何しろ書き出しが、Hrant Dink became the 1,500,001st victim of the Armenian genocide yesterday. 文中には Winston Churchill was among the first to call it a holocaust という記述もある。

ガーディアンは:
Outspoken Armenian editor shot dead in Istanbul street attack
Nicholas Birch in Istanbul
Saturday January 20, 2007
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,1994654,00.html

よくまとまった良記事。ディンクのもとに送りつけられていた脅迫がどのようなものだったのかも書かれている(「お前の子供を」というものもあったそうだ)。それから下記が特に注目点。
Established in 1996, Agos was the fruit of his belief that only dialogue could resolve the bitter memories left by the mass murder of Ottoman Armenians during the first world war.

An outspoken critic of Turkey's continuing denial that the events of 1915 amounted to genocide, he was equally opposed to international attempts to politicise the issue. When France's parliament voted last year to make denying the Armenian genocide a crime, he vowed to travel there and deny it.

Agosは1996年創刊。この週刊誌は、第一次大戦中のオスマンのアルメニア人の大量殺戮によって残された苦い記憶は、対話によってのみ、解決できる、というディンクの信念の賜物だった。

1915年の出来事はジェノサイドに相当するということをトルコが否定し続けていることを、ディンクははっきりと批判していた。だが彼は、この問題を政治化しようとする外国の思惑にも同じように反対していた。フランス国会が昨年、アルメニアのジェノサイドを否定することを違法としたときには、自分がフランスに渡ってジェノサイドを否定してやると言っていた。

ガーディアンはさすがだ。意地みたいなものを感じるよ。



このエントリに対する「アルメニアの虐殺はジェノサイドか否か」のコメントは強くお断りします。理由は、アルメニアの虐殺が「ジェノサイド」でなかったとしても、「あれはジェノサイドだった」との主張を重ねてきた人物の殺害とは、本質的に、関係ないから。

※この記事は

2007年01月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 15:44 | Comment(1) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
フラント・ディンク殺害の容疑者が逮捕されました。警察の取調べで犯行を認めたそうです。

警察が公表した「犯人の写真」(CCTVの映像)をテレビで見た父親が「うちの息子だ」と気づき、警察に通報したそうです。BBC記事に掲載されていますが、現場から逃げる「白い帽子にジーンズの上下」の若い男性。警察では「銃をベルトに押し込もうとしているところ」と説明しているそうです。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6283395.stm

逮捕された容疑者の名前はOgun Samast。年齢は16歳か17歳。黒海沿岸のトラブゾンの人で、イスタンブールからトラブゾンに行くバスのバス停で逮捕されたそうです。逮捕時に彼は銃を持っており、また、トラブゾンでは彼のほかに6名の容疑者も逮捕。警察では背後関係を捜査する方針。

ディンク氏の秘書によると、容疑者の少年は殺害の当日、ディンク氏に面会を求めて出版社を訪れるも断られ、そのあとは外で待っていたとのこと。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6283477.stm

トルコのエルドガン首相も政界からも、ジャーナリストたちからも一般市民からも今回の事件については非難の声が上がり、アルメニア共和国(トルコと国交はない)も厳しく非難。

アルメニアの大統領と国会議長の声明は:
Its president, Robert Kocharian, said the killing "raises numerous questions and deserves the strongest condemnation".

"We hope that the Turkish authorities will do everything possible to find and punish the culprit strictly in accordance with the law."

The speaker of Armenia's parliament, Tigran Torosyan went even further.

"Following the murder, Turkey should not even dream about joining the European Union," the Armenian news agency Arminfo quoted him as saying. http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6283395.stm
Posted by nofrills at 2007年01月21日 23:04

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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