kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年01月14日

シン・フェインの「歴史的」な動き

やはり、デイヴィッド・アーヴァインの葬儀にジェリー・アダムズが参列したことはサプライズだったようだ(BBCの報道映像でも一瞬そんなようなことを言っていたが、具体的には言っていなかった)。

Sinn Fein president on loyalist road
Saturday, January 13, 2007
Lesley-Anne Henry
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/article2150343.ece

シン・フェイン党首が東ベルファストのロイヤリストのハートランドを公的に訪れたのは今回が初めて。ベルテレさんでは「多くの人々が決して目にすることはないと思っていた歴史的瞬間」だったと書いている。

葬儀に参列した人々は、リパブリカン運動(=シン・フェインとIRAのこと)を代表して参列するのは誰だろうかと思っていた。シン・フェイン党首が窓に黒いフィルムを貼った車で到着したとき、人々は動じず静かで「卑怯な真似はするな」という囁き声が聞かれた。しかし、一部からは「絶好の機会なのに」との反応もあった。


葬儀のあと、アダムズ党首はボディーガードに囲まれて、参列者たちの中を車に向かって歩いていった。その参列者の多くが、UVFやUDAの強硬なロイヤリストである。だがこのときも、人々は単に彼が車へと進んでいくのをじっと見ていただけだった。

まさに驚くべき光景だった。

あるベルファスト住民は「まさかこの目で見ることになるとは。まさに時代は変わったんだ」とベルファスト・テレグラフに語った。「デイヴィ・アーヴァインがどういう人間だったかっていうと、こういうことなんだな。」


一方でブレアが休暇を1日切り上げたほどの「危機」にある和平プロセス(シン・フェインとDUPの問題・・・というかDUPの問題の方が大きいと思うんだけど)はというと、うーん、結局DUPがユニオニスト側の第一党になってしまったこと(2003年のストーモント・アセンブリーの選挙で10議席増してUUPを抜いた)が「和平プロセス」にとって想定外なんだよね(語弊はあるかもしれないがある意味「障害」)。DUPは当時から「ベルファスト合意(グッドフライデー合意)に反対」なのだから、当然といえば当然なのだけど、1998年の段階ではUUPとDUPの議席数には8議席の差があったのが、プロセスが進んでるのか進んでないのかはっきりしなかった間にDUPが支持を伸ばして(この過程はもう一度ニュースを見返さないとよくわからないが)しまったのは、和平合意推進勢力にとっては計算外だっただろう。シン・フェイン(和平支持)も「では一体どうしろと?」な感じになっている様子。とりあえず、今月内には打開に向けて動きがありそうだが。

Sinn Fein in key policing talks
Last Updated: Saturday, 13 January 2007, 13:33 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6258329.stm
Last month, Sinn Fein backed calls for the ard fheis to be held, on the basis of a positive response from the British and Irish governments and DUP leader Ian Paisley.

When the words of approval they expected from the DUP leader did not materialise, republicans began to cast doubt on whether the special Sinn Fein conference on policing would take place.

という具合に行き詰まり感ありありの状況下、月内にシン・フェインの党の会議(Ard Fheis)が行なわれる運びとなりそうだというのがBBC記事の内容だが、「ドクター・ノオ」ことイアン・ペイズリーの態度が:
The DUP denied that it had made any commitment to Mr Blair and Northern Ireland Secretary Peter Hain, particularly on the issue of the transfer of policing and justice powers by May 2008.

"I am not in the business of saying one thing in private and another in public," Mr Paisley said.

...

Meanwhile, Northern Ireland Secretary Peter Hain has accused some DUP politicians of showing "begrudgery" over recent developments in the peace process.

...

In an interview for Radio Ulster's Inside Politics programme, Mr Hain insisted that the time had come for both Sinn Fein and the DUP to move forward.

"I think this is make your mind up time and I hope we can get clarity from Sinn Fein on policing," he said.

"I hope that the DUP will be a little more encouraging of that as well, rather than the begrudging attitude you get from too many DUP politicians, most of them backbenchers, which doesn't create the kind of climate (where) everybody's trying to move forward together rather than to snipe at each other."


シン・フェインがpolicingの点でセント・アンドリュース合意にあるようなことを党としてサポートすれば、それは、GAが東ベルファストのロイヤリストのエリアに足を踏み入れたことよりもすっと、「歴史的(historic)」なものになる――ブレアが顔をてらてらさせながらbrave and historic moveなどと言うであろうようなものに。

※この記事は

2007年01月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼