「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年01月14日

【翻訳】EFFのPeter Eckersleyさんによる、アーロン・シュワルツ追悼

アーロン・シュワルツが死んでしまった。

【訃報】アーロン・シュワルツ、26歳で死去
http://matome.naver.jp/odai/2135803187972427301


各所からいくつもの追悼文や声明が出ている。ご家族の声明やローレンス・レッシグのブログは、上記の「NAVERまとめ」に入れてある。

以下、EFFのPeter Eckersleyさんによる追悼文(CC BYライセンス)の全訳。



Farewell to Aaron Swartz, an extraordinary hacker and activist
January 12, 2013 | By Peter Eckersley
https://www.eff.org/deeplinks/2013/01/farewell-aaron-swartz

並はずれたハッカーでありアクティヴィストであったアーロン・シュワルツへの告別のことば
ピーター・エッカーズレー (Peter Eckersley)
2012年1月12日

昨日、私たちにとって親しい友人であり協力者であるアーロン・シュワルツが、自殺した。短かく並はずれた生涯に、悲劇的な形で幕が下りた。

インターネットを、開かれた知識にとって活発なエコシステムにし、それを維持するために彼ほど尽力した人は、ほとんどいない。彼の貢献は数限りなくあり、その中には絶対に欠かせない存在となっているものもある。2010年末のことだが、後のSOPA/PIPAインターネット・ブラックリスト法案の前身となったCOICA(「オンラインにおける権利侵害および偽造防止法(Combating Online Infringements and Counterfeits Act)」)阻止の活動に力を貸してほしいと声をかけたときに、彼は Demand Progressという組織を立ち上げた。この組織は100万人以上のネット活動家を動かし、(EFFが)(ネット規制阻止の)キャンペーンに勝利するために極めて重要な同盟者となった。

Aaron Swartz at CCC


このほか、アーロンが手掛けたプロジェクトには、RSS仕様(RSS 1.0)、web.pytor2webオープン・ライブラリーChrome port of HTTPS Everywhereなどがある。また、クリエイティヴ・コモンズの立ち上げにもアーロンは参画している。Redditの共同設立者のひとりで、同サイトの成功を導いたチームの一員であった。彼のブログは、読むのが楽しいブログである。

アーロンは言葉を使うのがうまく、鋭い人であったが、それは複雑な内向性と入り混じっていた。彼は人とコミュニケーションをとるときに自分の都合しか考えておらず、自分だけのスペースとして広い空間を必要とした。彼と共同作業をして、このことでイライラさせられた人もいる。彼は自分の周囲の社交的な世界が大好きではあったが、それに付き合わされるのはたまらなく苦痛だと感じることも頻繁であった。

アーロンは人間相手に話をするよりも、本を読んでいたほうが快適だと感じていたが、それは今に始まった話ではなかった。(かつて彼は私にこんなことを言っていた。「ぼく的には、人と話をするのは、相手がほんとに頭のいい人でもかなり厳しいんですよ。でも腰を下ろしてその人の本を読むだけなら、その人の最も考え抜かれた深い考えを、きれいで効率的な形で吸収できるんです。本を書いた人と話をするよりも、本からの方が、早く物事を吸収できるんですよね」。)文章というものと、オープンな知識への情熱、そして自分を売り込むということに関しての嗅覚の結果、時には、ものすごい結果が生じることもあった(例えばこの例でのこの件)。最終的に彼を打ち砕くこととなったあの出来事の前に既にこういうことがあったのだ。【訳注:「この例」はPACER (Public Access to Court Electronic Records) の大量ダウンロード(→参考)、「この件」はそれが原因でFBIに手配されたこと。】

2011年、アーロンはMIT(マサチューセッツ工科大学)の構内ネットワークを利用して、JSTORのデータベースから数百万点の学術雑誌の記事を自身のラップトップにダウンロードした。(検察側の言い分では)この際、JSTORとMITが設定していたブロックを回避するため、必要に応じて使用しているマシンのIPアドレスとMACアドレスを変更し、またMITのネットワークにより高速で接続するためにクローゼットに忍び込んだとされている。これが犯罪行為にあたるとして、アーロンは、「コンピューター詐欺・不正法 (the Computer Fraud and Abuse Act)」での「不正アクセス (unauthorized access)」で有罪となれば最大35年の懲役もありうるような刑事犯として訴追に直面していた。


アーロンに対する検察側の言い分を信じるとすれば、彼はJSTORからダウンロードした何百万という科学論文や学術論文を解放し、誰でも読むことができるようにしたり、かつてアーロンがやったようにひとつの巨大なデータセットとして分析できるようにしようとしていたという。手法は挑発的だったが、アーロンが戦って勝ち取ろうとしていた最終目標は――つまり、公的資金によって実現した科学学術研究の結果の書き物を囲い込み、その資金を出した人々のほとんどの手が届かないところに置いている出版システムから開放することは――、私たち全員が支持すべきものである。【訳注:つまり、納税者の税金で研究が行われている大学の研究成果は、納税者が自由にアクセスできて当然、という考え。これは2010年のウィキリークスの大量放流のときに繰り返しメディアで語られた理念なので、詳しく調べたい方はその線で当たるのがよいかもしれません。】

さらに、アーロンが置かれた状況は、米国のコンピューター犯罪法の不正義、特にその懲罰体系のそれを浮き彫りにするものである。アーロンの行為は、疑いの余地なく、政治的なアクティヴィズムであり、そのような行為を現実世界で実際に行ったとして、最大でも軽微な罰で済まされるようなことだった。ちょうど、政治的抗議のデモの集会で立ち入り禁止のところに立ち入ったくらいのものとして。しかし彼はコンピューターを使ったのであり、そのために、長期の収監という可能性にさらされることになった。これは不均衡であり、EFFは長年それと戦ってきた。そしてそれは昨日、悲劇的な結果をもたらした。ローレンス・レッシグは、この悲劇がコンピューター犯罪法と、何としてもそれを使おうとする検察の改革の基盤となってほしいと述べている。私たちも同意見だ。

アーロン、きみの友情がもう過去のものになってしまったこと、よりよい世界を築くためにきみの力がもう借りられなくなってしまったことを、私たちは心から、残念に思います。どうか、安らかに、読んでください (May you read in peace)。




原文はCC BYでの提供。著作者はEFFのPeter Eckersleyさんです。

本稿(訳文)は、CC BY-NC-SAで公開します。非営利の利用はご自由に(営利目的の利用をしたい方は、ご自身で一から翻訳してください。原文はそれが可能なライセンスです)。原文を参照し、原著者(EFFのPeter Eckersleyさん)を表示する限り、訳文の改稿などはご自由にどうぞ。ただし改稿などした場合は、同じくCC BY-NC-SAのライセンスで公開してください。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。




※この記事は

2013年01月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 10:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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