「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年01月09日

ピアース・モーガンを米国から追い出してやると鼻息の荒い人物が、モーガンの番組を直撃した件

12月、コネティカット州で学校を標的にした銃撃事件があり、子供たち20人と大人7人が殺されるというひどいことがあったあと、米国では――まだ犠牲者の身元も特定されないうちから、それどころか銃撃を行なった犯人の身元もわからないうちから――「銃規制が必要だ!」という声が、「いつものメンツ」の間から上がりだした。

それだけなら「いつもの」ことかもしれないが、コネティカットの銃撃事件が「いつもの」とは違っていたのは、その後、その「銃規制が必要だ」という声がどんどん広がって、いつもは反応しないところまで反応していたことだ。銃の製造メーカーの株式を持っているプライベート・エクイティがその株式を売却するとか、大統領が「銃規制が必要」との考えを明示するとかいったことだ。

そういうふうに、「アメリカ全体」が「いつもとは違う」ムードになっていたときに、米国で有名なある英国人の発言が、「銃規制など絶対にあってはならない、連邦政府の強権反対、個人の自由バンザイ」みたいな人たちの怒りを買った。「英国人のくせに、生意気な!」というわけだ。

実際、あの「ガン・カルチャー」の根本にあるのが「反英」であることは事実だが、問題は、当の本人が「アイリッシュ」であることだ。。。なんてオタク話はおいといて。

ともあれ、その英国人を国外退去処分にすべき、と「連邦政府の強権反対、個人の自由バンザイ」みたいな人たちが署名運動を始めた。連邦政府宛ての請願を。 (^^;)

それがえらい数の賛同者を獲得し、えらい騒ぎになった。それがクリスマス前だ。

その署名の発起人が、「国外退去にすべき」と考える英国人が司会をつとめるCNNの番組に「殴りこみをかけた」!!

その一部始終は……

モーガン対ジョーンズ、いろんな意味で頂上決戦
http://matome.naver.jp/odai/2135764422526292001


※その「署名の発起人」があのアレックス・ジョーンズだっていうんだから、アメリカのキ○○○道はまっすぐですね、と思う次第。しかもRTしたり記事をツイートしたりしているだけの私のところにまで、「ジョーンズは正しい!」、「連邦政府の強権反対!」みたいなご意見ツイートが来るし(イスラエルのハスバラのパターンによく似ている)、なんだかね。あの人たち、ほんとに、英語を使ってれば全員アメリカ人だと想定するんだね。むろん、口頭で、アクセントを聞きながらではそうではないのだけど。

んで、モーガン対ジョーンズなどということがあったのだということに気づいたのは、TwitterのTrending Topicsを見たときだったんですが、そのキャプチャ。これが8日(火曜日)の夜(日本時間)。



そして9日午前11時ごろ、再度TT入りしている。 o_O


※この記事は

2013年01月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:33 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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