「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年12月31日

「ユネスコ世界遺産」であることなど、何の意味も持たなかったあの破壊について。

今年、本来破壊されてはならなかったのに破壊されたものには多くのものがある。イタリア北部ボローニャ近くでは大きな地震があって中世以来の建造物がいくつも倒壊した(人命も失われた)。日本でも貴重な建物が火災で失われたというニュースがあったばかりだ。

しかし、破壊の経緯も程度も最もひどいものといったら、シリアのアレッポの旧市街であることに異論は少なかろう。

今年8月、ジャーナリストの山本美香さんが落命したアレッポは、その後、ずっと戦闘が続いている。山本さんが亡くなった翌月、9月には、「重要な観光資源」であるはずの(したがって、この内戦が終わったら必ず「復興」という局面で頼ることになったはずの)旧市街が戦場になっていることが、(シリアにとっての)外国人ジャーナリストたちの報道で事実として確定した。

【シリア】アレッポのスークの広い範囲が焼失と(2012年9月29日、現地時間の報道)
http://matome.naver.jp/odai/2134893550752503401


「『アクティヴィスト』の主張として、金曜日に砲撃と銃撃が始まった、とありますね」、「アサド軍、反政権軍双方が互いにあいつらがやったと言い合っている状態」、「『反政権軍の司令官は、戦闘がやんでいる間は観光ガイドをつとめる』みたいな書き出しで、アレッポの旧市街が『戦闘地域』になっていることを報告する記事」など、読み返していて非常に暗い気持ちになる。

そのアレッポの現在の様子が、Twitterを使っている人道支援活動組織の人によって、報告されている。下記で一覧できるようにアーカイヴした。

「旧市街、動くものといえば猫くらい」……シリア、アレッポは今(2012年12月30日の現地報告)
http://matome.naver.jp/odai/2135689167252413801


先ほど「破壊の経緯」と書いたが、こういうことだ。9月、そこが「戦場」になったとき(そしてまだスークが大炎上はしていなかったとき)、FSAの側はこんな見方だった。

「あの高度にいる場合は、こちらは安全だ。連中は旧市街を標的にはしない。別の地域を攻撃にいくところだろう」とアブー・モハンメドが言い添える。

……これが9月23日の記事

http://matome.naver.jp/odai/2134893550752503401?&page=3

そういう前提で、旧市街を拠点としたのだ。スークの中にあるハマム(サウナ)で寝起きするなど。

そしてどうなったか?

「動くものといえば猫くらい」の「死の街」になった。







本当に、この破壊については、愚か、としか言いようがない。旧市街が「戦闘地域」になるずっと前に、下記のような事態になっていたのだ。



政権側は、仮に自分たちが破壊の主体であることを認めたとしても(それすらしようとしていない。あれだけの戦力を持っているのは誰かということを突っ込むと、プロパガンディストが「帝国主義者め!」とわめきたてる。ソヴィエト・ロシアでは、という例のジョークではない)「『テロリスト』の連中が立てこもるから」と言うだろう。

そうして、世界遺産だろうが観光資源だろうが文化財だろうがモスクだろうが教会だろうが、おかまいなく砲撃・爆撃を行ない続けるだろう。

もう、何も破壊するものがなくなるまで。

「街を救済するために、その街を破壊しなければならなかった」のだろう。

むろん、破壊されているのは「建物」だけではない。

#シリア: (またもや)パン屋の行列に対し空爆、死者多数、どころではない。ハマでの事態
http://matome.naver.jp/odai/2135628941358423701


ホムスは、重要な地域をアサド政権軍が奪還しましたよ。

Syria government forces retake Homs district
30 December 2012 Last updated at 10:45 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-20869412
Syrian government forces have pushed rebel forces out of the Deir Baalbeh district of the city of Homs after several days of fierce fighting.

One activist group said that more than 200 civilians were killed by regime forces after the fighting, but the claim cannot be independently verified.

The death toll across Syria on Saturday was reported to be as high as 400.




アレッポの街。


大きな地図で見る

※この記事は

2012年12月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:45 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼