「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年12月30日

「私はアホーで阿呆な帝国主義者です」と書かれた板切れを首からぶら下げて歩きましょう。

先日、こんなことがあった。


ahoteikokushugi.png


なので、手間暇かけて地道にこんなのを作った。

「シリアのパレスチナ難民キャンプが砲撃・爆撃を受けたのは、今回が初めてではない」件の詳細
http://matome.naver.jp/odai/2135607654237662601


しかし、たぶんほとんど誰も見ていない。



なぜこんなview数の少ないようなことを、手間暇かけてやってるかというと、ネット上の情報がほんとにやばいからだ。

いわく、世の中にある情報は、「欧米の情報操作されたマスコミ報道」と、「非欧米の、CIAなどの情報操作を受けていない『真実』」しかない、というやつ。

あれは、ほぼ「カルト信仰」なのだが、日本語圏では新聞社さまもテレビ局さまも一定期間が過ぎたらニュース記事をウェブからご削除しあそばされるというオメデタイ具合なので、(2ちゃんのスレや阿修羅のような掲示板にコピペされている場合を除いては)ニュースの記事はネットから消えてしまう。そして、そういう「カルト信仰」の言説のみが、ネット上に残る。

そこに「すべては情報操作されている」という「陰謀論」がはびこる。いわく小沢一郎がやばいことになったのは米国の陰謀だ、etc etcというのも含めて。

田中角栄から竹下、小沢への流れを知らない世代のお子様たちが「な、なんだってー」となるのならわかるが、私と同世代でその辺のことはニュースで聞いて知っているような人たちが一生懸命喧伝しているのを見ると、やるせない気持ちになる。

やるせない気持ちになってるだけではどうしようもないので、少しでも「ネットで検索可能な、まともな情報」を増やさないといけないと思っている。

つまり、「シリアでパレスチナ難民キャンプが攻撃されている意味」の解説ではなく、「シリアでパレスチナ難民キャンプが攻撃されているという事実」の淡々とした記述を。



追記:
どういうことかっていうと、こういうことです。今年8月のツイートですが、あまりに的確なので。








マジな話、「ミグで空爆」っていう話なのに「戦争屋ー」とか言ってて、それがソ連〜ロシアの戦闘機だということが全然わかってないような人が大騒ぎしてるのですが、そういう人はグロズヌイの破壊とかも知らんのだろうなと思うわけですよ。殺されたアンナ・ポリトコフスカヤが何を暴き出していたかなども。


※2分くらいからあと、グロズヌイの破壊の様子。レバノン内戦での破壊とか、クロアチア独立戦争での破壊とか、ボスニア紛争での破壊とか、イラク戦争での破壊とか(特にファルージャ包囲戦)、ガザ地区の破壊とか、映像は少ないながらいろいろ見てはいるんですが、グロズヌイという都市の破壊は本当に別格。見てるこちらの頭蓋骨の中がえぐられるような破壊。

※この記事は

2012年12月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼