「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年12月29日

故人について、故人をよく知る人が書く、という試み。

英語圏の新聞報道では、誰か著名な人が亡くなったときは、「記事」が少なくとも2種類出る。ひとつはシンプルな報道(「小説○○で知られる作家の○○氏が、入院先の病院で○○のために亡くなった。○○歳だった」という事実を伝える目的のもの)で、もうひとつは新聞社が故人の業績をまとめ、その人物がどのように評価されるかを端的に伝える「オビチュアリー」である。オビチュアリーは故人をよく知る立場にあった人が書くこともないではない。ただ根本的に、故人と近しかった人が「エピソードを語る」的に出す記事ではない。

そのような「エピソードを語る」的な記事が何本か、クリスマス前のオブザーヴァー(ガーディアン日曜)で特集されていたのを、先ほどざっと読み終えた。

今年亡くなった著名人について、近しい人たちが語る(英紙の記事リンク集)&BBCスライドショー
http://matome.naver.jp/odai/2135626160355908201


ほぼ1世紀を生きた歴史家、エリック・ホブズボームは、亡くなったときには自身が「歴史」になっていたと私は思うが(20世紀の「夢」、「理想」そのもののような人であった)、60年も前のその人との出会いについて回想したホブズボームの教え子、ニール・アシャーソンの一文は、単に見事としか言いようがない。
http://www.guardian.co.uk/books/2012/dec/23/eric-hobsbawm-obituary-neal-ascherson



『かいじゅうたちの住むところ』のモーリス・センダックについて、同じシーンにいたのであろう劇作家のTony Kushner(私はこの人の作品を知らないし、名前の読み方すらも知らない。アメリカ人の固有名詞の読み方は、英語読みにしてよいのか、原語発音なのかがわからないので、非常に難しい)の文章は、それ自体が「ショート・ストーリー」だ。「ある日、助手のリンが訪ねていくと、モーリスはめったにいたことのない居間のソファに座っていた。どうした風の吹き回しかと聞くと、蝙蝠がね、と話しだした。『物音がするからおりてきてみたら蝙蝠が飛び回っていたんだよ。そいつが話しかけてくるんだ。ドイツ語でね』。ひとしきり話し終えたモーリスは、『今の話、信じるかい?』とリンに尋ねた」……。その「ドイツ語」はどのような言語であるか。センダックはどういうふうに語ったか。こんなに短い文章なのに、その世界は重層的である。
http://www.guardian.co.uk/books/2012/dec/22/maurice-sendak-obituary-tony-kushner

ほか、キーラ・ナイトリーがトニー・スコットについて書いた文章(大真面目に、「襟を正した」ような文体で)、マリー・クアントがヴィダル・サッスーンについて書いた文章(いかに魅力的な人物であったことか)など。

おもしろいのはビースティ・ボーイズのアダム・ヤウチ(この人はフザけたエピソードしか残していないようだ)。

ナイル・ロジャースがドナ・サマーについて書いた文章は、「ザ・芸能界」という感じできっと書いてないこともたくさんあるんだろうな、と思わせる。

しかし中でも「2012年」を象徴しているのは、マリー・コルヴィンについてジェレミー・ボーエンが書いた文章とそれにつけられた読者コメントだ。

サンデー・タイムズの記者として、フォトグラファーのポール・コンロイとともにホムスに潜入取材していたマリーは、公式ルートでは外国のメディアが入れずにいた(したがって「シリア政権の流す大本営発表ではない情報がはなから存在しもしなかった」)包囲下のホムス、バーバ・アムル地区から、文章で、また電話の音声で、現状を伝えた。ホムスの市民ジャーナリストたちが組織した「メディアセンター」にいたときに砲撃を受け、
http://matome.naver.jp/odai/2133059258404269801
http://chirpstory.com/li/4457



マリー・コルヴィンが死んだあと、英米のメディアにはこの稀有な報道記者を追悼するための文章が、あふれた。そのことを快く思わない人たちもいた(「取材に行った者」が「ニュースのトピック」になることを嫌う、という一般的なあれではなく、シリアで情報を外に出そうとしてきた市民ジャーナリストのことが語られないことを疑問に思う、ということだが)。

ともあれ、そんな中でBBCのジェレミー・ボーエンは、「仕事仲間」としてのコルヴィンについて、回想していたジャーナリストのひとりだ。2011年、まだかろうじて権力を有していたムアンマル・カダフィが「西側」のジャーナリストのインタビューを受けると決めたときに仕切りを任されたのがコルヴィンで、コルヴィンがインタビュアーとして選んだのが米国のCNNかABCか(←興味ないので失念した)のアマンプールという女性記者と、英BBCのジェレミー・ボーエンだった。

Marie Colvin left a big gap in a lot of lives. She was kind, funny, brave and talented, with big reserves of empathy, which is vital for a reporter, especially in wars. The best kind of war reporting, and Marie was an expert, does not just deal in why, what and when. It also gives a sense of what it is like to be someone caught up in a nightmare. She told the stories of people who might otherwise have been ignored and nameless victims.

Marie found plenty of nightmares to write about on her last assignment, in Homs. About 24 hours before she was killed on 22 February she sent me an email that was typical in that it showed her dedication and the way she could extract some black humour out of a time and a place that wasn't at all promising.

I am in Syria, freezing in Baba Amr… I thought yesterday's piece was one of those we got into journalism for. They are killing with impunity here, it is sickening and anger-making.

Are you coming this way again? I had to get smuggled over the border, no visa for the weary. Was kind of fun speeding across the fields on a dirt bike, as long as you didn't look left to the Syria post about 200 yards away.

Hope to see you soon. Mx


When the news that Marie had been killed came through, it was desperately sad, but to me at least it was not a big surprise. From the first time I met her, in 1991, during the bombing of Baghdad in the Gulf war, she was prepared to take big risks to do stories she believed were important. She never seemed gung-ho, just determined. ...


いかにdeterminedな人でも、包囲攻撃下の場所に入って、リアルタイムで報道し(=脱出したあとに記事を書く、などではなく)、包囲されている側の実情を伝える、などということは、そんなにできることではないだろうと思う。そして、それには特に自己管理の能力や危機管理の能力が必要だ(取材という行為は、「自分だけ」では済まない)。そういったことについても、コルヴィンは人に伝授することを惜しまなかったという。

ジェレミー・ボーエンの書いたトリビュートのコメント欄に、1980年代のレバノンで、包囲下の街に潜入したコルヴィンについての投稿がある。

1987年初め、いわゆる『キャンプ戦争』のときにレバノンのベイルートのブルジュ・アル=バラジネ難民キャンプが6か月にわたって包囲されました。その最も暗い日々のなか、私たちはみな、食べる物がなくて弱っていたときに、マリーと写真担当のトム・ストッダートが生命や手足を失う危険をおかして、狙撃兵の支配するキャンプ周囲のノーマンズ・ランドを超え、私たちの気持ちを持ち上げてくれたのでした。

当時、マリーは20代後半でした。サンデー・タイムズ記者となった直後で、彼女とトムはブルジュに1日か2日滞在しました。マリーの報告とトムの写真は、包囲を終わらせるために大いに助けになりました。サンデー・タイムズの記事で、マリーは、自分たちではどうすることもできないひどい状況に巻き込まれた一般の、無辜のパレスチナの一般市民(非戦闘員)の立場になっていました。それは、マリーがどこに行こうと、その取材で一貫していたことです。……

詳細は:
http://matome.naver.jp/odai/2135626160355908201?&page=1

※この記事は

2012年12月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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