kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年12月21日

「先生」性とは何か、「先生の一言」から検討する(笑いながら)

「算数」のできない子供だった。「数学」になって少しはマシになったが、「因数分解」のような「見ればわかるだろう」というものが苦手だった。そんな私を呼び出した数学の先生は(ふざけて間違えて回答しているのではないかと疑われたようだ)、「君には、数学的センスというものがないんだな」と嘆息し、「数学の美しさがわからないなんて」と憐れむような目で私を見た。

あるツイートを見て、世界のどこででも、そういうことは起こりうるのだな、と思った。




ところでお嬢さん、そこはyou'reではなくyourだ、とYour in America Botマンが出てきそうなこのツイートは、インドの人のものだ。

一方で、これはアメリカの人。




正直言うと、これ、私やったことあります。「何のために辞書持ってるんですか」と居丈高に出たら、「スペルわかんないのにどーやって辞書引くんだよ」と反撃され、「はい、その通りですね」と。(笑)

そんな感じで、ゆるく楽しめる感じで。

大切なことはぜんぶ学校で…? 英語Twitterのハッシュタグ「先生の一言」より
http://matome.naver.jp/odai/2135599002029347501


この先生、すばらしいなと思ったのはこれ。




「黙祷をささげましょう。たった今、余計なおしゃべりがすべて死に絶えました」

一方でこれは生徒さんがかわいい。特に顔文字の使い方が。




今年はこの、「2バイト文字圏」の顔文字を、英語圏で非常によく目にした。emojiという「英語」も定着していた。もちろん、:) や、 :( のような旧来のエモティコンを見ることの方が全然多かったのだが、「つまらない」とか「期待外れ」とか「無反応」とか「ちょっとイラっとした」を表す顔文字、(-_-) は本当によく目にした。

あと、これもおもしろい。



「Chemistryという単語に含まれているFは、Funの意味です」
「でも先生、Fは入っていません」
「いいところに気づきましたね」



これも、何かの引用のようだけど、失笑。「みなさんのレポートね、非常によく書けているものがいくらかありました。ほかのは、飲んでないと読んでいられませんでした」。

そして、この先生↓は、とても大切なことを端的に言語化して教えているいい先生だと思います。



from:
大切なことはぜんぶ学校で…? 英語Twitterのハッシュタグ「先生の一言」より
http://matome.naver.jp/odai/2135599002029347501

※この記事は

2012年12月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 01:35 | TrackBack(0) | 英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼