「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年01月06日

【リトビネンコ事件】新たにポロニウム検出

まだ続くかね・・・というか今更出てきたということは、関係者の誰かの足取りを逐一調べているということなのだが。

ロンドン、メイフェア地区のイタリアン・レストラン、Pescatori(ペスカトーリ)から、新たに、ポロニウム210の痕跡が検出された。従業員は検査を受けているところ。HPAでは、一般への放射能の影響はないとの見解。

Polonium-210 found in restaurant
Last Updated: Friday, 5 January 2007, 15:10 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6234855.stm

Polonium-210 found at restaurant
Press Association
Friday January 5, 2007 3:23 PM
http://www.guardian.co.uk/uklatest/story/0,,-6325085,00.html

あと、Google Newsで見つけたLA Timesの記事:
Polonium-210's quiet trail of death
The radioactive substance had killed long before the unsolved poisoning of a former Russian spy.
By Karen Kaplan and Thomas H. Maugh II
Times Staff Writers
January 1, 2007
http://fairuse.100webcustomers.com/fairenough/latimes697.html

つまり、ポロニウム210による殺人はリトビネンコが最初ではない、という記事。
At the height of World War II, in an isolated medical ward at the University of Rochester in New York, Dr. Robert M. Fink gave water laced with polonium-210 to a terminal cancer patient and injected four others with the isotope. None of the five apparently died from the minute doses, though one succumbed to his cancer six days later.

The ethically dubious experiment, prompted by concern for the safety of workers in the Manhattan Project to develop the atomic bomb, yielded the first solid information about the isotope's health effects on humans.

うはー。マンハッタン計画が出てきたよ。しかもこの実験、末期がんの患者にポロニアム210を摂取させ、この物質の人体への影響を調べるというもので、人体実験だ。おっかねぇ。

んで、最初の犠牲者は、マリー・キュリー(ポロニウムの発見者)の研究室で仕事をしていた日本人だった。
The first polonium death occurred in 1927.

The victim was Nobus Yamada, a Japanese researcher in Marie Curie's lab in France. In 1924, he worked with Curie's daughter Irene Joliot-Curie to prepare polonium sources. After returning home the next year, Yamada fell ill.

"There was a poisoning from the emanations," he wrote Irene, according to Susan Quinn, author of "Marie Curie: A Life."

Nobus Yamadaさんとは、資料によると「山田延男」さんで、「ポロニウム、ラジウム、トリウムから放出されるα線強度の実験を行った」方だという。研究所での活動は高く評価されたが、パリに行って2年半で体調を崩して日本に帰国。「帰国後2週間目には、ひどい病態に落ち込んで翌年3月中旬には突然、意識を失い東大病院に入院した。しかし臨床医らは病因について何ら明確な判断を下されなかった」とのこと。その後一時軽快するも、体重減少、聴覚・視覚障害ののち死去。原因は当時はわからず、「また、第2次大戦中に東京が空襲をうけ山田宅と山田に関する証拠書類なども焼失してしまった」。

で、このLA Times記事にあるIreneというのはキュリー夫妻の娘であるが、彼女もポロニウムの犠牲になったとLA Timesにはある。事故でポロニウムの容器が破損してから10年後に白血病で亡くなった。
The Curies' daughter Irene also fell victim to the isotope. She died of leukemia in 1956, 10 years after a sealed capsule of polonium-210 was accidentally broken in her laboratory at the Radium Institute in Paris.


さらに、イレーヌが亡くなったころ、イスラエルでも・・・
About the same time, scientists developing Israel's nuclear program were exposed to its lethal effects.

The first signs of contamination were the traces of radiation on the laboratory desk of Israeli physicist Dror Sadeh. He had taken what he thought were adequate precautions against the hyperactive element.

But those precautions weren't enough. Radiation was discovered "in my private home, and on my hands too and on everything that I touched," he wrote in his diary.

Within a month, one student who worked in Sadeh's lab at the Weizmann Institute of Science in Rehovot, Israel, was dead from leukemia. The lab's supervisor died a few years later - contaminated by polonium-210 as well, Sadeh suspected.


# 風邪を引いているので記事がほとんど読めていません。回復したらちゃんと読みたいと思います。

※この記事は

2007年01月06日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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