「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年12月08日

12月7日、三陸沖を震源とするM 7.3の地震……そのとき、Twitterの画面に流れてきたもの






2012年12月7日(金)17時20分ごろ、非常に大きな地震があった。東京でも長い横揺れで、時間の経過にしたがって揺れが増幅するような感じが、3.11によく似ていた。上記は揺れがおさまってから40分ほどのタイミングでのツイート。(@marysha_Fさんとは3.11の前、「エジプト革命」のころからのつながり。)

その前に目にしていたのが下記のツイート。5:33 PM, 大きな揺れがおさまってから10分くらい。(渋井さんがこれを送信する1分前には大きめの余震もあった。)




さらに時間が経過して、6:18 PM。これは福島第一原発で作業に携わっておられる「サニーさん」のツイート。




その頃、少し開けておいた窓から、ご近所の夕飯の支度のにおいが入ってきていた。玉ねぎをじっくり炒めるにおい。コロッケ? ハンバーグ? それともカレーかシチュー?

英語でTwitter見てると、自然災害にさらされても「日常」を続ける、的なのが、何というのかな、「誇り高い人としての振る舞いだ」といわんばかりの言葉がよく流れてくる。玉ねぎのにおいでそんなことを連想しながら、なんかもう、情けなかった。画面には「そのとき、テレ東は……」みたいな、手あかつきまくって陳腐化しきったくだらない(←すまんね)ツイートがRTされて流れてくるし、「安価な電力がなかったら、避難するにも街灯もない状態に」みたいなのまで流れてくるし(それさ、福島の人に面と向かって言ってごらんよ。第一、原子力発電が「安価」だなどという説を真顔で言える理由もわからない)。




さて。今回の地震、津波警報も発令され、英語圏の報道機関も一斉に報じていた。そのとき私が見ていたTwitterのTLを、できる限り保存した。(手動抽出なので保存できてないものもあります。)

このくらいの情報が、このくらいの速度で流れる、という目安として。あと、「海外メディアはー」的なヨタに躍らせられることのないようにも。

2012年12月7日、東日本での地震で津波警報・注意報発令〜その時のタイムラインの記録
http://matome.naver.jp/odai/2135486964218604601


12月7日の地震でのタイムラインのアーカイヴ(続き)
http://togetter.com/li/419148


※英語のツイートは、在東京の英語圏報道機関の記者やフリーランスのジャーナリスト、その他の英語話者の人たちのものと、報道機関のフィード(ロイター、ジャパン・タイムズなど)がほとんどです。東京・首都圏以外の地域の人も何人かはいます。また、数名、在北京のジャーナリストが東京からの報告をRTしていたりするものもあります。

VOAのスティーヴ・ハーマンさんと、Storyfulはフォローしておくといいです。BreakingNewsは、米国のニュース速報が多いので、米国に興味のある人はいいかも(「共和党の支持率が」みたいな、米国外には関係ない話まで細かく流れてくる)。

※この記事は

2012年12月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 05:59 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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