「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年10月27日

北アイルランド、現場の「和解」がまた一歩進んで、「歴史的」とも言いたくなることが起きている。

1987年12月22日、ベルファスト。

この日、18歳のガリーは、アルスター・ホールにいた。ベルファスト出身で最も成功していたバンドであるStiff Little Fingersのライヴ。演奏中、SLFのシンガーのジェイク・バーンズにメモが渡された。ジェイクはそれを読み上げた。

「お客さんの中にガリー・マクマイケルさんっていう方がいらしたら、ご自宅に電話してくださいとのことです」

SLFのジェイクがメモを読み上げる前、午後8時20分、ベルファスト近郊にあるガリー・マクマイケルの家の前で、車が爆発した。車の下に仕掛けられていた爆発物が起爆したのだった。運転していたガリーの父、ジョン・マクマイケルが両脚を吹き飛ばされるなどして、病院に搬送された。

後に妻が語ったところによると、ジョンは2週間家を空けていて、爆発があったその日に帰ってきたところだったという。

ジョン・マクマイケルはその晩、投獄されている仲間の家族のもとに、クリスマスの七面鳥を届けに行こうとしていた。車を発進させ、ドライヴウェイをバックさせているときに、車の底面の、動きを感知して起爆するようになっていた仕掛けが作動した。

車が爆発したとき、妻と、2歳の息子(ガリーの弟)は家の中にいた。振動を感じ音を聞いただろう。

とんでもない重傷を負っていたが、ジョンは2時間持ちこたえた。病院で最後にこと切れる前に、妻子に何かを言い残した。年が明けて1月9日が40歳の誕生日、という若さだった。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_McMichael

ジョン・マクマイケルは、しかし、ただ「犠牲者」であったわけではない。

「北アイルランド紛争」といえばIRAが語られることが多くてバランスが取れていない状態だが、「カトリック」の側に武装組織IRAがあったように、「プロテスタント」の側にもUDAとUVFという武装組織があった。

ジョン・マクマイケルはUDAの指導者の1人だった。UDAの実働部隊(攻撃を行なう部隊)であるUFFの司令官でもあり、決して「平和主義者」ではなく、ましてや「エンジェル」ではなかった。

彼の車の下に爆弾を仕掛けたのはProvisional IRAだったが、それは彼らの「戦争」だった。

長期間家を留守にしていた彼が、たまたま帰宅していたその日に車が爆発するようにできたということは、何らかの情報がUDAからIRAの側に流されたのではないか、といった「疑惑」もあった。「内通者」との疑いがかけられたUDA関係者のひとりは、マクマイケル爆殺の翌年、1988年にUDAによって射殺された。同様の疑いがかけられた別のUDA関係者は、後に、警察のスパイだったことが判明した。

そのジョン・マクマイケルの死から25年(四半世紀)という節目を迎え、マクマイケルの拠点であったベルファスト近郊のリズバーンで、彼を記念する討論会が行われた。

話し手、および聴衆には、故人の盟友たち(UDAメンバー)だけでなく、彼を殺した側(つまり、「彼ら」に殺された側)の人々もいた。そのいずれでもありえていずれでもないかもしれない、純然たる「被害者」(UDAやIRAの「戦争」のあおりをくった「一般市民」)もいた。

Historic night as old foes turn to debating
By Brian Rowan
Friday, 26 October 2012
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/politics/historic-night-as-old-foes-turn-to-debating-16229969.html

John McMichael Memorial debate: Sometimes you have to remember how far we have really come
By Brian Rowan
Thursday, 25 October 2012
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/politics/john-mcmichael-memorial-debate-sometimes-you-have-to-remember-how-far-we-have-really-come-16229614.html

IRAとUDA(およびそれぞれの武装組織の政治部門であるシン・フェインとUPRG)という、昔の敵同士が、同じ場を共有し、銃弾ではなく言葉で論戦を交わした。

その場にいたのは、具体的には(以下、引用文中の太字は引用者による):
A senior republican has described as “historic” a debate held in memory of John McMichael, the UDA leader killed by an IRA bomb 25 years ago.

Sean ‘Spike’ Murray − once one of the most senior leaders in the IRA − was speaking in a packed hall in Lisburn last night at the event entitled Reflections.

In the audience, prominent republicans such as Seanna Walsh, Harry Maguire and Jim Gibney sat not far from loyalist leaders including John Bunting, Jimmy Birch and Winston Irvine.

Also present were members of the Victims Forum and clergy.

A speech by Sinn Fein’s national chairman Declan Kearney at Westminster on Wednesday − containing stinging criticisms of the DUP − had formed part of the backdrop to the McMichael event.

But last night's panel brought Murray, another republican, Danny Morrison, and DUP MP Jeffrey Donaldson to the same top table.

http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/politics/historic-night-as-old-foes-turn-to-debating-16229969.html

文字列を二度見することはそんなに頻繁にはないのだけど、この記事は二度見した。特にジェフリー・ドナルドソンがいたということは、非常に大きなことのように思う。

(ドナルドソンは元UUPだが、党の方針に反発した強硬派で、UUPを抜けてより強硬なDUPに移籍したような人だ。そのDUPが、「絶対にNO」の立場を撤回して、シン・フェインとのパワーシェアリングに応じたという現実、そしてそれが「ポジティヴなもの」と見なされている現場で、彼は何をどう感じているのだろう。なお、ドナルドソンがトップをつとめる民間団体は、最近、アフタニスタンの「和平」の交渉にも関わっている。ただしこちらは、北アイルランドの人々とは関係のないところでいろいろあって、うまく進んでいない。)

ジョン・マクマイケルという人について最も重要な点は、彼は武装勢力のリーダーとして「戦争」をしながら、「武力で敵を放逐する・ぶっ潰す」というやり方によってではなく、「政治」という道で目的を達するべきと考えるようになっていたということ、そして「北アイルランド」を「英国でもなくアイルランドでもない」実体にしようと考えていたことだ。

McMichael came to support the ideas of republican Danny Morrison regarding the Armalite and ballot box strategy and felt that the UDA should also build up a political wing to this end. As a result, following the murder of Robert Bradford, he stood as the Ulster Loyalist Democratic Party candidate in the by-election for Bradford's South Belfast seat and ran the most high profile ULDP campaign ever seen, calling for a long term strategy of negotiated independence for Northern Ireland.

http://en.wikipedia.org/wiki/John_McMichael

いちいち注釈が必要になるが、ダニー・モリソンはシン・フェインの理論家でジェリー・アダムズの懐刀のような存在。「アーマライト&バロットボックス(ライフルと投票箱)」とは、武装闘争一辺倒ではなく、選挙と両立して大義の実現をめざす、という、80年代に(ダブリンではなく)ベルファストが主導権を取ったときのシン・フェインの基本的な方針だ。これは前の世代のリパブリカンとは大きく異なっていたが、1981年のハンストのときに獄中のボビー・サンズをウエストミンスターの議員に当選させることができた(名目としては「シン・フェイン」からの出馬ではなかったが)ということがベースにある「新時代」のリパブリカニズムの基本だった。(しかし、その後も武装闘争が継続していったことは忘れてはならない。)

マクマイケルは、シン・フェインのこの方針にある意味で共感を覚え、UDAのリーダー(のひとり)として自身も「選挙」への道を追求するようになる。

1982年、ロバート・ブラッドフォードの死に伴う補選に、マクマイケルはUlster Loyalist Democratic Partyから立候補、a long term strategy of negotiated independence for Northern Ireland, つまり「交渉で北アイルランドの独立を実現するための長期的戦略」を打ち出して選挙戦に挑んだ。

1941年生まれのブラッドフォードは、北アイルランドでフットボーラーとして活動し1964年に引退、メソジストの宗教家となる。1971年にオレンジ・オーダーに入ったことで「ユニオニズム」に関係するようになり、 Vanguard Progressive Unionist Party, つまり「アルスター・ヴァンガード」(サニングデール合意に反対した強硬派のUUPメンバーらが分派した組織)から立候補するなどしていたが、1981年にIRAに射殺された。

(この「アルスター・ヴァンガード」が動き出したのは、1972年に当時の北アイルランド自治政府が英国の中央政府によってサスペンドされたときなのだが、彼らが打ち出した方針が、 'Ulster – A Nation' である。)

※「北アイルランドの独立」というのは、ユニオニスト(特に、UUPの上流階級の人々ではなく、ヴァンガード系の急進派のユニオニスト)の要求である。(“IRAは「北アイルランドの独立」を目指して云々”、という記述がときどきあるが、根本的に間違っている。IRAが求めているのは「アイルランドの英国からの独立」であり、南、つまりアイルランド共和国が英国から独立している現状では、「北アイルランドと共和国の合一」、すなわち「統一アイルランド United Ireland」である。「独立した北アイルランド independent Northern Ireland」ではない。)

1982年の補選ではマクマイケルはわずか576票しか獲得できなかったが、1985年、サッチャーとフィッツジェラルドの間でアングロ・アイリッシュ合意が成立したあとにマクマイケルらがまとめた "Common Sense: Northern Ireland - An Agreed Process" は、(その時点ではがっちがちの武装闘争とダーティ・ウォーを展開しているにせよ)将来的には政治的決着をはかろうという理念を示した文書で、それ自体はナショナリストのSDLPなどからもそれなりに評価されているという。

もう少し書きたいけれど時間切れ。

この80年代の時期のユニオニズムの「アルスター・ナショナリズム」の理念が、その後ずっと受け継がれ、そのときどきに対応するように発展してきているような気もする。ピーター・ロビンソンの発言のいくつかは、明確に「アルスター・ナショナリズム」の文脈にあると感じられるはずだ。
McMichael had hoped to draw Catholic support for Beyond the Religious Divide, having made the following statement

"We'll just continue what we've been doing during the past year. It will become more and more obvious that the UDA is taking a very steady line, that we're not willing to fall into line behind sectarian politicians. It will take time. What people forget is that we also have to sell the idea to Protestants".

http://en.wikipedia.org/wiki/John_McMichael


ちなみに、マクマイケルの車に爆発物を仕掛けるという作戦を実行したIRAのメンバーは、マクマイケル爆殺の翌88年、ジブラルタルで英SASに射殺された。



「かつての敵同士(それも武装組織の)が、仲良く一つの場に」ということは、これまでにも何度か実現してきた。その最初の例(だと思う)が2010年のこれだ。

2010年08月07日 「こんな写真を見ることがあるとは誰も思ってなかっただろう」という見出しがブラフではない件
http://nofrills.seesaa.net/article/158776045.html



フォールズ・ロードのシン・フェイン本部、ボビー・サンズの壁画の前で並んでいるのは、基本的に、UDAのメンバーたちだ(詳細はブログ参照)。彼らロイヤリストが、この場所にいて、ニッコリ笑顔で記念撮影、などということはありえないことだったが、このときはまだ、IRAの人たちは(マーティン・マクギネスは別として)フレームの中にいない。

ところでこの「フォールズ・ロードだよ、全員集合」の、いわばお膳立てをした1人が、ベルテレの記事を書いたジャーナリストのブライアン・ロウアンである。

今回の、ジョン・マクマイケル記念討論会の記事を書いたのも、また、ロウアンである。彼は「ジャーナリスト」である以上に、「紛争後」の現場に関わってきた人だ。いつか、回想録としてまとまった文章を書いてもらいたい。




※この記事は

2012年10月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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