「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年12月16日

リアルタイムの『ホテル・ルワンダ』

映画『ホテル・ルワンダ』で、状況の悪化で安全が確保できなくなったとして、支援活動などをしている白人たちが全員バスに乗せられて退去させられるシーンがあった。あの映画の中では最も印象的なシーンのひとつだ。あれは、1994年にルワンダで実際にあったことを、2000年代になってから、映画として制作したものだ。

2006年12月の現在、リアルタイムで、「安全のために支援活動の白人は退去」ということが起きている。

Aid workers quit Darfur violence
Last Updated: Friday, 15 December 2006, 17:52 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/6183469.stm

Aid workers face "unprecedented difficulties" because of military activity and direct violence against them, a statement by six agencies says.

...

Friday's statement was signed by Oxfam, the International Rescue Committee, Goal, Concern, World Vision and the Norwegian Refugee Council.

...

The violence has intensified despite the presence of some 7,000 African Union peacekeepers.


ああ、ひどいことが起きていると知ってしまった。次は自分にできることはないだろうか、どうすればいいのだろうか、と思うかもしれない。そして「どうすればいいんですか?」と誰かに聞きたくなるかもしれない。

しかし、「どうすればいいのか」は誰も知らない。実際、自分が何かをしたからといってそれがすぐに「解決」するわけではない。

だが少なくとも、知る努力を続けることくらいはできる。それを、単なるbetter than nothing以上の何かにしていく方法は、私は知らないけれども。

※この記事は

2006年12月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 04:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼