kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年10月09日

エジプト、「マスペロ」の流血から1年


(Photo: Jenny Gustaffson)

ミナ・ダニエル。「Mina (ミナ) という名は男性名でもありうる」ということを明確に私に示してくれた彼が死んだのは、ちょうど1年前だ。2011年10月10日に日付が変わってしばらくしたころ、Twitterの画面の中がにわかに騒がしくなった。「人が撃たれた!」という報告が雪崩のように流れてきていたとき、彼は銃撃を受け、地面に倒れていた。



カイロのマスペロという場所にある国営放送局の前、キリスト教の宗教施設への攻撃(放火)に抗議し、同じエジプト人として怯えずに暮らしていける環境を求めるという平和的なデモ隊(集まった人々は、コプト教徒もいればイスラム教徒もいた)を、突然、銃撃が襲った。

後に「マスペロ Maspero」という地名そのもので語られることになった陰惨な流血。誰がやったのか、何が目的だったのか、いまだに明らかになっていない。というか、明らかになる見込みなど立っていない。

そのとき現場にいたジャーナリストのサラ・カーさんの今日の記事。

One year from Maspero, justice still evades families
Sarah Carr
Tue, 09/10/2012 - 10:30
http://www.egyptindependent.com/news/one-year-maspero-justice-still-evades-families

ミナ・ダニエルという青年は不思議にカリスマティックな人だったようだ。13歳のときにサラフィになって以来、キリスト教徒を忌み嫌ってきたという25歳の男性が、2011年1月のタハリール広場でミナと言葉を交わしてすぐに仲良くなったという。その人は、そのときの戸惑い(「どうしてキリスト教徒なんかと」)を率直に語っている。
http://english.ahram.org.eg/News/55044.aspx

当日のTwitterのログ(アーカイヴ):
http://chirpstory.com/li/2721
http://chirpstory.com/li/2722
http://chirpstory.com/li/2723

さきほどこれらをざっと読み返してみたが、生々しくてどうもいけない。

あとで少し書き足そう。


※この記事は

2012年10月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:57 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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