「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2012年09月26日

ホムスはまだ、包囲されている。街区が徹底的に破壊されて、なお。そして人々の平和的抗議運動も続いている。

「ホムス」という地名にピンとくる人が、今、日本語圏にどのくらいいるのか、私にはまったくわからない。

今年2月、国境を超えて潜入した「西洋」のジャーナリストのうち2人が砲撃で落命し、ほかに複数名が負傷しながら何とか脱出してきた、レバノン国境のほうにあるあの「激戦地」だ。

レバノンから、反政府武装勢力のための武器弾薬や各種物資が入ってくるときの要衝。それゆえ、ホムスは街自体が標的となった。容赦のない破壊と見境のないような殺戮。命からがら脱出に成功した英国人フォトグラファーは、病床でのインタビューで「第二のスレブレニツァとなる可能性が高い」と述べていたが、そのような表現ですら生ぬるい(「第二のスレブレニツァ」だなんて、明らかに、「欧米」にショックを引き起こそうとして選んだ言葉であろうけれども、街がどうなったかを視覚イメージで見せられたら、そんな言葉では驚いていられない)。

それが2月のことだった。その後、「激戦地」は北部のアレッポに移り、「欧米」のジャーナリストもこぞってアレッポに入り、また首都ダマスカスでの戦闘を伝えているが、ホムスはいわば「手薄」の状態、ぼーっと受け身のニュースの消費者でいるとほとんど情報が入ってこないまま、半年以上が経過した。

実際には、ホムスはまだ、包囲されている。

シリア、激しい攻撃を受けたホムスは、今
http://matome.naver.jp/odai/2134857922517092101



2月の攻撃の時に、現地と英語圏を結んでくれていたホムス出身のツイッタラー、ローズさんが、9月、シリアに向かった。といっても戦うためではなく、難民キャンプ(国内避難民)への訪問だ。彼女は数日間、トルコ国境地帯を訪れていた。先月だったと思うが、トルコはもうこれ以上はキャパシティ的に無理、ということで、「新たに受け入れ環境を整備するまでは」との理由で、シリアとの国境を閉じ、難民の受け入れを停止した。

国境のシリア側(アサド軍ではなくFSAが支配している)に、そこから先に進むことのできない避難民がただ滞在している。これからだんだんと寒くなるというのに、テントもなく。

8月に亡くなった山本美香さんも、アザーズから逃れてきた女性と子供たちが、オリーヴの木の下で寝起きしているのを取材していたが、どうやら、そういう人々が国境のエリアには本当に大勢いるようだ。

ローズさんは、あまりのショックにほとんど写真など撮れなかったそうだが(彼女のこういうディセンシーというか育ちの良さ! フォトグラファーでもないのに、他人の苦難を前に、ぱしゃぱしゃ写真など撮れない、という神経のありかた)、その彼女がわずかに撮ってTwitterにアップした写真が、「飲用水」とはとても思えない状態の「水」だった。

その写真は、「まとめ」の3ページ目にある。
http://matome.naver.jp/odai/2134857922517092101?&page=3

ローズさんの非常に品の良い、落ち着いた感じの知的な文体で語られる「絶望」は、今もなお深く(そしてそれは、ホムス攻撃を日々伝えていたときと変わっていない)、それでも「希望」を殺すことはしていない。

彼女は実際に避難民の生活を見て、そしてただ見に来るだけの同胞たちに怒りと呆れを覚えつつ、ファンドレイジングの活動を始めたという。

英国で実際に、トルコ国境からシリアに入って支援物資を届けているチャリティ(日本でいうNPO)を通じて、避難民の人々に直接届けるためのテントを買う資金を集めようとしている。

その連絡先なども、「まとめ」の4ページ目に書いてある。
http://matome.naver.jp/odai/2134857922517092101?&page=4

「何もできることがない」状態にフラストレーションを抱えている方は、ぜひ見てみていただきたい。(ただし先方のサイトは英語である。)

※この記事は

2012年09月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:17 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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