「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年09月18日

そのとき私はまだ義務教育中で、そんなことが起きているとは全く知らなかった。1982年9月。

おそらく「レバノン」という地名もはっきりとは把握していなかっただろう。

1982年9月16日、軍に包囲されたその一般人居住区は民兵に襲われた。正確な犠牲者数は、今も不明だ。
http://matome.naver.jp/odai/2134788831152165701


晴れ上がった空に、洗濯物がばたばたと音をたてていた。遠くでイスラエル軍の拡声器が投降を呼びかけていたが、回りには死者しかいなかった。女の子がおもちゃの赤いイヤリングをしていて、それを見て私はこみあげてくるものを止められなかった。……

――広河隆一『パレスチナ―瓦礫の中のこどもたち』(1991年、徳間書店)、p. 44


4195545633パレスチナ―瓦礫の中のこどもたち
広河 隆一
徳間書店 1991-06

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もっと子供のころからニュースを聞くと、なぜか、「ケニアの首都ナイロビ」、「リビアの首都トリポリ」、「アルゼンチンの首都ブエノスアイレス」などの語句がセットフレーズとして頭にインプットされるという変なクセがあったので、「レバノンの首都ベイルート」というセットフレーズは知っていたかもしれないが、では「レバノン」という地名が何なのか、それが何を意味するのかはまったく知らなかったし、どこにあるかも知らなかった。知らない、というか、特に関心がなかったはずだ。

(画像は当時の米誌TIMEの表紙。虐殺が行われたすぐ後に、記者が入った。)

当時から、「中東は難しい」という「イメージ」だけはあった。イラン・イラク戦争が起き、同級生のお父さん(商社の人)が「ヨルダン」という国に配属替えになったときには、「アルジェリア」があって「ナイジェリア」があるのに、「ヨルダン」があっても「アサダン」はない、などというダジャレで、クラスのお調子者が教室を笑わせるということはあったが、「なんとなく、いつも戦争ばかりしている地域」という「イメージ」だけで、それ以上には特に関心を持たなかった。

その頃、将来自分が、こんな「一次資料」を読んで、うはー、とか、くはー、とか言っていることになろうとは、まるで思っていなかった。(via NYT Op-Ed by Seth Anziska)






こういう感じの文書。会合の記録なので、(ウィキリークスが暴露した外交公電などにあったように)密かに自分を売り込もうとして技巧を凝らして書かれている、などといったことはなく、決して読みづらくはない。

が、読んでいて、つらい。

しかもこの文書などを保管しているナショナル・アーカイヴスが、テルアビブではなくエルサレムにあるという事実。

そして、自分が、リアルタイムではこのひどい虐殺を、まるで記憶していないという事実。1982年9月といえば、「9月14日 - モナコ公国のグレース・ケリー大公妃が自動車事故死」、「9月22日 - 三越・岡田茂社長が取締役会で解任される。『なぜだ!』という言葉が話題に」といったニュースは当時見たことをはっきり記憶している(といっても別に特別の関心があったわけではなく、「三越」のニュースは「知っているデパート」だったからおもしろがってニュースを見ていて、記憶したのだと思うが)。

「晴れ上がった空」、「洗濯物がばたばた」、「おもちゃの赤いイヤリング」……こんな何でもないような要素が、こんなにひどい「ニュース」と関連するなどとは、まったく思ってもいなかった子供時代。ひどい「ニュース」とは、「空襲」とか「ナパーム弾」といった、自分の日常生活にはまったく縁のない言葉が出てくるものであった。(ベトナム戦争の、少なくとも終わりのころのニュースは、私は記憶している。「ボートピープル」や「ベトちゃん、ドクちゃん」のニュースもリアルタイムで見ていたし、『ベトナムのダーちゃん』のような本も読んだ。それでいて、「自分とは関係のない物と言葉で語られる世界」でしかなかった。)

ロンドンのテイト・ギャラリー(時代区分からいって「モダーン」の方だが)が、今年、イラク人画家のDia Azzawiがサブラ&シャティーラの虐殺を描いた絵画を購入したそうだ。



画家はジャン・ジュネの報告に触発されてこの強烈な作品を描いたという。

シャティーラの四時間シャティーラの四時間
ジャン ジュネ Jean Genet

女中たち バルコン (岩波文庫) 花のノートルダム (光文社古典新訳文庫) 恋する虜―パレスチナへの旅 ユリイカ2011年1月号 特集=ジャン・ジュネ “悪”の光源・生誕一〇〇年記念特集 アルベルト・ジャコメッティのアトリエ

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こういう「非道」は、決して「過去の話」ではない。というか、今、ここにある。










"Why silent over massacres in Syria?" というようなツイートは、上記chirpstoryで拾えていないかもしれないが、複数見たことは確かだ。下記はそのひとつ。



※このイラストの基になっている写真(見たらひどく衝撃を受けるような写真です)。
http://twitter.com/FarahAlSweel/status/247478632052826113

「非常によく似た光景が今も」というようなツイート:







※この記事は

2012年09月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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