「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年12月09日

【リトビネンコ事件】「改宗」をめぐる思惑?

なんか、ロシアで若いのが英国大使館にプレッシャーかけまくりだそうで、インテリジェンスの世界ではおそらくこじれることも想定はしておいたほうがいいんではないかという話になってると思うんですが(Another of its (=Nashi's) stated goals is to thwart any pro-Western mass movements of the kind which took power in Georgia and Ukraine in recent years. てぇんですから、ウクライナとグルジアでやりすぎたんですな、西側は・・・あれはイラク、特にファルージャ包囲戦のカバーに使われたのだけれども、ウクライナの「オレンジ革命」人脈はそのまんまで「リトビネンコ毒殺事件」のPRに関わってるからなぁもにょもにょもにょ)、時は少しさかのぼって、アレクサンドル・リトビネンコの葬儀。

どうやら、葬儀も少し大変だったようです。焦点は「改宗」。大原則として信仰はパーソナルなものですが、このケースでは「その事情」が周囲の人たち(家族、友人)にとって意味を持っている。というか、周囲の人たちの間で意見が割れている。

http://nofrills.seesaa.net/article/29174520.html
の下半分に書いたことと多少かぶりますが、別のソースから。記事に出てくる人名にも注目しつつ。

まず、APの配信記事。まとめ記事としていい感じです。
Slain ex-spy had affinity for Chechnya
By Danica Kirka
The Associated Press
http://seattletimes.nwsource.com/html/nationworld/2003467343_spy08.html

出だしはこんな感じ:
アレクサンドル・リトビネンコの友人の中には、モスクワと2度の戦争を戦ったチェチェン独立派のリーダーたちもいる。リトビネンコの共感/同情(感情移入:原語ではsympathy)は大変に深く、そのためにリトビネンコは死の床でイスラム教に改宗し、チェチェンの地に埋葬してほしいと思っていた、と言う者もいる(some say)。

ロシアのスパイだった者が、母国であれほどに多くの人を殺した反逆者たちに共感するようになった事情はいかなるものだろうか。また、彼がチェチェン独立を支持したことは、彼の死と関連しているのだろうか。

……

毒を盛られたとき、リトビネンコはアンナ・ポリトコフスカヤ殺害を調査していた。ポリトコフスカヤはチェチェンにおけるロシア軍と親ロシア派のチェチェン軍による人権侵害をレポートし、ロシアの軍や政府の多くの人々を怒らせていた。

ポリトコフスカヤとリトビネンコを同列に並べるのが妥当なこととは、私には思えないんだけど、まあいいや。

記事に出てくるのは:
・アンドレイ・ネクラーソフ Andrei Nekrasov
映画作家。過去記事参照。「彼は本当に、使命を負った男だった」と語っている。

・アフメド・ザカーエフ Akhmed Zakayev
地の文で、「2000年に英国に避難してから友情を築いた」とある。ということはチェチェンでFSBの仕事をしていたときは、個人的つながりはなかったんだね。ザカーエフはモスクでの祈りと墓地で葬儀に参列。

・ウラジミール・ブコウスキー Vladimir Bukovsky
チェチェンでの経験とその後の経験で、リトビネンコはチェチェン独立という大義に共感を寄せるようになった、と語っている。リトビネンコは、反乱勢力の闘争に大変に感動したので、戦争が終わったら、チェチェンの地に埋葬してほしいとの遺言を残していった、と。(この「戦争が終わったら」は、「独立が達成されたら」という意味ですね。)

この3人はこれまでの報道でも名前は出てきていましたが、次は新顔。

・ロード・ジョン・リー Lord John Rea
墓地でポリトコフスカヤの写真を持って参列。
「チェチェンを救え」キャンペーン(the Save Chechnya campaign)の会長。
http://www.savechechnya.org/
↑サイト、リニューアル途中のようで、中身が空で何もわかりません。Internet Archiveで過去の内容は確認できます(2006年2月更新分まで)。何で全部消しちゃってあるのか、理由はわかりませんが、Googleのキャッシュによると、最後の更新は今年10月12日、ポリトコフスカヤの追悼集会の案内です。
http://web.archive.org/web/*/http://www.savechechnya.org/

Lord John Reaでは検索結果が出ないので、savechechnya.orgのweb.archiveのページからLord Rea of Eskdale(<Lord John Reaの名前)を得てそれで検索しても、「Lord Rea of Eskdale旧宅がホテルになってます」関係の情報がヒットするのみ。。。年齢すらわからない。謎。まあ、セキュリティに配慮しまくってる人なのでしょう。

それから
・ボリス・ベレゾフスキー Boris Berezovsky
墓地での葬儀に参列

記事から:
For some, Litvinenko's reported conversion to Islam raised suspicions that he was sympathetic to insurgents. For others, it represents his identification with the underdog.

Some questioned whether he had really converted at all.

何でしょうね、このわかりづらい文章は。「改宗したと言われるが、それは彼が反乱勢力に同情的だという疑念を呼び起こすという人もいれば、自分も負け組だと考えていたということだという人もいる。そもそも改宗などしていないのではという人もいる」という内容だけど、「誰が」がさっぱりわからない。(英語的には、主語はsomeとかothersなので、主語がないわけではないけれども、その指示内容がさっぱりわからない。)

さらに記事から:
Goldfarb confirmed an imam had visited him in the hospital. One friend, who spoke on condition of anonymity, said the family wanted a non-denominational funeral, fearing "the inevitable attempt by Litvinenko's enemies to portray him as an associate of Islamist terrorists."

Despite this, an imam appeared uninvited and performed rites at the burial, Goldfarb said.

例の「リトビネンコのスポークスマン」的な役割を果たしていたアレックス・ゴールドファーブ(これまでに、「反ロシア」関連でいろんなところに顔を出している人)が、病室にイマーム(イスラム教の宗教者)が来たのは事実、と述べている。匿名を条件に取材に応じたある友人は、リトビネンコの遺族は、「敵が彼のことをイスラム主義のテロリストの友人として描こうとするのは避けられない」と思い、非宗教的な葬儀を希望していた。しかし埋葬のときに、招いてもいないイマームが現れて、埋葬の儀式を執り行った、とゴールドファーブ。

つまり、リトビネンコのお父さんは「息子はイスラムのやり方で埋葬してほしいと言い残した」と言っていたのだけれど、いろいろな配慮で、埋葬の儀式は宗教色のないものにすることにした。しかしイマームがやってきて、祈りの言葉を唱えた。これにより、埋葬はイスラム教式で行なわれたことになるが、それはイマームの勝手な判断、ということになる。

いろいろに読み解けますなぁ。。。本当に、ゴールドファーブの語っているように、「イマームが勝手に現れた」のだとしても、誰かが場所とか教えなければその場所に来ることはできない。あるいは、実は故人の遺志に沿った形でイスラム教での葬儀を手配してあったのだけれども、「呼んでなかったのに坊さんが勝手に入ってきて、困りました」とハプニングを装っているのだ、と考えることも、理論上はできる。(イスラム教での葬儀をすることは「テロリストの仲間」というクレムリンの宣伝を簡単にしてしまうので。)

(いやだからこれはジョン・ル・カレの小説じゃないってば。)

もうちょっと知りたいので、同じことを伝えるガーディアンの記事:
Confusion envelops Litvinenko even as he goes to the grave
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,1967295,00.html
※カッコ内は私の追記。
荒れ模様の天候のロンドン、その天候に呼応するかのような一日は、リージェンツ・パーク・モスクでの儀式で始まった。この儀式にはリトビネンコの父親、アフメド・ザカーエフ、ウラジミール・ブコウスキー、およびほかに数名が参列し、一般の信者300人ほども参列していた。マスコミの撮影スタッフは儀式に参列するために£250を請求された。(<こんなこと書くなって。笑)尋常ではない注目のされ方に、一般信者はどこか楽しげだった。(そりゃ、最近ロンドンで「モスクに取材陣」といえば「過激派」の話ばかりでしたもんねぇ。)

死の直前にリトビネンコはイスラムに改宗したと主張する友人たちがいる一方で、懐疑的な見方を示す友人たちもいる。リトビネンコの父親は、息子は改宗したと理解していると述べているが、モスクでの儀式のあと、「息子の信仰上の兄弟のみなさんにお集まりいただき、感謝します」と述べている。(つまり、お父さんは「息子は改宗した」と言い切っている。)ブコウスキーは、リトビネンコは宗教的なところのない人物だったが、ロシアのことを恥じているのでチェチェンに埋葬してほしがっていた、と語る。それからブコウスキーは、英国がロシアとの駆け引きで「相手に譲っている」と非難し(英国人にはイタい言葉を使ってます)、プーチンのことを「吸血鬼」という言葉を使って述べた。

モスクでの儀式には、安全上の問題のため、棺は運び込むことができなかった。葬儀参列者はそれからハイゲイト墓地に向かった。墓地ではさらに50人が、非宗教的儀式に参列するために加わった。非宗教的儀式はリトビネンコ夫人が望んだものだった。夫人は息子(12歳)とともに参列した。リトビネンコの両親と、リトビネンコの最初の結婚相手も参列していた。また、アレックス・ゴールドファーブ、ボリス・ベレゾフスキー、アンドレイ・ネクラーソフ、Save Chechnya campaignの出資者であり会長であるリー卿らの姿もあった。

棺が墓穴に入れられ、父親が追悼の言葉を読み上げたとき、突然イマームが現れてイスラム教の儀式を執り行った。

儀式のあと、ゴールドファーブは次のように語った。「リトビネンコ夫人の意向で、宗教とは関係のない形での儀式を予定していたのですが、残念なことに、それを無視してイスラームの儀式を執り行った人たちがいます。私たちは見苦しい事態を引き起こすこともできたのですが(=イマームを取り押さえる、など)、夫人がどうかアレクサンドルを静かに追悼してほしい、やりたい人にはやりたいようにさせておけばよい、とおっしゃいまして。神に判断をゆだねましょう。。。アレクサンドルが何を望んでいたのか、私にはわかりません。アフメド(・ザカエフ)は、彼は死の床で改宗したと信じていますが、私は何ともいえないと思っています。」

ゴルドファーブはイマームが突然入ってきたことを"distraction"という言葉で語った。また彼は「マリーナ(夫人)はとても強い女性です。夫を亡くし、自宅もthe Medical Protection Agencyが封鎖しているので帰れない。メディアは始終追い掛け回す。そして今度はこれですよ。」

近くのLauderdale Houseでの追悼式では、plain choirがThere Is a Green Hillを歌い(=キリスト教式)、ストラビンスキーとラフマニノフの曲が歌われ/演奏され、追悼の辞が読まれた。その後、参列者がロンドン中心部での食事に向かうころには、先刻のぎすぎすした空気は消えていた、ということだ。

というわけで、リトビネンコの周りの人たちも、「リトビネンコの改宗」で2つに割れているようです。これ、ほんとに予想外の行動だったんだろうなあ。。。「改宗」を認めたがらない人たち(記事からはっきりとわかる範囲ではゴールドファーブ)は、おそらく、これが「イスラム・テロへの共感」の文脈に位置づけられることを警戒している。「改宗」を断言している人たち(同、ザカーエフ)は「チェチェンの大義」を前面に出そうとしている。

お父さんは、なんか、「息子の最後の思いを尊重してやりたい」という一心のように思える。(このお父さん、精神科のお医者さんで、娘の婚姻で身内にイスラム教徒がいるそうです。)夫人は・・・仮に私がその立場だったら、「理念の話より、夫の埋葬の方が重要」と考えると思うが、どうだろう。ご自身も疲労困憊しているだろうし。

「ポリトコフスカヤと同様にリトビネンコも」論は、おそらく、「チェチェンの大義」の側がプッシュしたがっていることだ。最終的には「チェチェンの大義」にスポットライトが当たる。しかしPR戦略を担当しているのは「チェチェンっていうかむしろ反プーチン」の人たちだ。(オリガルヒとチェチェンの結びつきにはいろいろありすぎていそうでよく知らないけど、関連した人物の名前でウェブ検索すれば、何となくいろいろとわかる。)

ある意味、両者は「敵の敵は味方」でつながっている面がある。そしてリトビネンコの死は両者から利用されようとしている。本人も自分の死が利用されることは望んでいただろうけれど、最期に改宗した(ベッドサイドにイマームに来てもらった)ということは、彼は「チェチェンの大義」をそのほかのものより優先することを選んだ、ということではなかろうか。

一応タイムズの記事もね。
http://www.timesonline.co.uk/article/0,,13509-2493245.html

最後に新情報あり。ただしこの事件には関連しない。
Earlier it was revealed that Litvinenko had taken part in a citizenship ceremony in October using a false name, Edwin Carter.

It is understood that Whitehall officials knew that he had changed his name for his own protection.

シティズンシップをとったのはポリトコフスカヤ殺害の直後だったけど、警戒してたんですな。別筋の話では「リトビネンコという人は自宅も普通だし、身の安全という観念がないかのような」といった感じの話があったが、あれはやはり嘘ではないにせよほにゃららほにゃららほにゃほにゃ。にゃーにゃーにゃー。


※この記事は

2006年12月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Lord Nicolas Rea, 3rd Baron Rea (b. 1928)については http://en.wikipedia.org/wiki/Baron_Rea
をご覧ください。
Save Chechnya Campagin のパトロンです。労働党所属の英国上院議員です。ザカーエフらが、記者会見を英国上院で開けるのは彼のお陰です。
Posted by 岡田一男 at 2008年01月29日 18:35
>岡田一男さま
ありがとうございます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Baron_Rea
から「第三代」で
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Rea%2C_3rd_Baron_Rea
にたどりつきました。
John Reaではなく、Nicolas Rea(フルネームはJohn Nicolas Rea)で項目になっていたのですね。
(これを調べたのが1年以上前のことで、細かいことは覚えていないのですが、普通に検索しただけでは見つからなかったように記憶しています。)

リトビネンコ事件についての英国での報道は、2007年に入ってからは「ロシアとの外交問題」の側面に焦点が当てられて、この記事のあとは、Lord Reaの名前は英国での報道では見ていません(といっても、私もロシアに関する記事は、BBCとガーディアンとでしか読んでいないので、タイムズなどでは出ているかもしれませんが)。
Posted by nofrills at 2008年01月31日 19:37

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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