「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2012年09月14日

ブラッドフォードの博物館で、「世界最古の動くカラー映像」が発見、修復され公開されている。

もうそんなに前になるのか、と素で衝撃を受けているのだが、20世紀の終わりに「今世紀を振り返る」という企画がたくさん実現した中で、NHKがものすごくいい仕事をしたことがある。1995年〜96年の「映像の世紀」というシリーズだ。



これも、今の、というか2,3年前の流行り言葉(バズワード)でいうと「キュレーション」になるのだろうか。既に存在しているアーカイヴから選り抜いて集めた素材によって、ひとつの「物語」を語らせたり、ひとつの「流れ」として見せたり、ひとつの「解説」とするという形式のドキュメンタリー。放送後、学校の授業で資料として視聴したという話も多く聞いた。

その最初の回が、「20世紀の幕開け」だった。検索したら、その出だしの部分のナレーションの文字起こしがあった。(引用にあたって改行などを変更した。)
今からちょうど百年前の1895年、パリで1分間の動く映像がスクリーンに映し出されました。

最新式の映写機。光を集めるレンズは、水の入ったフラスコです。光源は、当時街灯として使われていたアーク灯です。

手で回しているこの部分、撮影の際にはカメラにもなります。

100年前、三十人あまりの観客が見たのは、フランス人 ルイ・リュミエールが撮影した、工場の出口。

真夏の強烈な太陽光線を利用して撮影されたこの映像が、世界で最初の本格的な上映映画でした。


そして、カラーの動く映像が実現したのは、リュミエール兄弟の『工場の出口』から14年後の1909年……というのが、これまでの映像の歴史の定説だった。

そう、イングランド、ヨークシャーの都市、ブラッドフォードで、新たなフィルムが発見され再生に成功するまでは、ね。

鮮やか! 英国で発見された、世界最古のカラー映像(1901年〜02年の撮影)
http://matome.naver.jp/odai/2134755499624878501

※その映像の公開情報などについても、上の「まとめ」に。

上記「まとめ」の中に含めてあるBBC記事は、この夏の英国を包み込んだ「我が国すごい」のムードを明確に引きずった調子の、いわば「愛国的」なトーンで、以前参照したことのある戦争中(と私が普通に書くとき、それはアフガニスタン戦争やイラク戦争ではなく、スエズ危機でもなく、第二次世界大戦であるというのが我ながら不思議だが)の技術についての記事を髣髴させて「いやぁ……」という感覚をおぼえるのだが、それはさておき、これは大発見だ。

「まとめ」の中に、フィルムを発見し、デジタル技術も用いて修復を行なったブラッドフォードの「国立メディア博物館」がYouTubeにアップしている映像をエンベッドしてあるが、そこで「世界初のカラー映像」の技術的なことなどもたっぷり解説されている。

映像そのものも、特に何ということはない、撮影者(=発明者、開発者)の身の回りの光景なのだが(金魚鉢、子供たち、大通りを行き交う馬車の列……)、これが1901年から1902年というあの時期の、ロンドンの光景、ロンドンの色の記録だ。

一九〇一年一月二十三日
昨夜六時半、女王オズボーンにて死去す。
弔いの半旗掲げられけり。街、みな喪に服せり。
余もまた黒きネクタイを締め、異国の臣民ながら弔意を表さんとす。
余に黒手袋を売りし店の男、「新世紀の開始、甚だ幸先悪し」と嘆く。

(それから10日後)

クイーンの葬儀を見んとて朝九時、宿の主人と共に出ず。
オーバルより地下電機にてバンク駅に至り、それより二ペンスチューブに乗り換う。
マーブルアーチにて降りれば甚だ人ごみ荒い故、ネクストステーションに下らんと宿の主人に云う。
その言の如くしてハイドパークに入る。
さすがの大公園も人間にて波を打ちつつあり。園内の樹木みな人の実を結ぶ。
宿の主人、余を肩車に乗せてくれたり。ようやくにして行列の胸以上をみる。
キング、ジャーマンエンペラーなど従う。棺は白に赤をもって覆われたり。

――夏目漱石の日記より
http://freett.com/2chimage/printtemplate.htm


『映像の世紀』などのテレビ番組で、またそのほかの機会に何度か、白黒の映像として何度か見たことのあるヴィクトリア女王の葬儀。当時、ロンドンに滞在していた夏目漱石が言葉で描写しているその「色」は、ひょっとしたら当時既に、動く映像として記録されえていたかもしれない。

スチームパンクより一段リアルな、ヴィクトリアンからエドワーディアンへの時代。

なお、スチールカメラ(静止画像)のカラー化の技術が完成しつつあったのもこのころで、『工場の出口』のリュミエール兄弟も1907年にカラー写真を開発している。
1907年、二人は世界初の実用カラー写真「オートクローム」を発売。これは、赤、緑、青に染めた馬鈴薯澱粉をカラーフィルターにしたもの。従来の三色分解ワンショットカメラ(一度に三枚の乾板を使用)と違って乾板一枚だけで撮影できたので、アマチュアを中心に支持を集めた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%85%84%E5%BC%9F


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NHKエンタープライズ 2005-11-25

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※この記事は

2012年09月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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