「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年07月21日

Bloody Friday (血の金曜日)から40年

1972年7月21日、北アイルランド、ベルファストの「血の金曜日」事件を知っていますか。
http://matome.naver.jp/odai/2134288088663804001


Bloody Sundayは、ナショナリストの若者たちを激怒させ、IRAは新規人員補充に困らなくなった。

およそ半年後に、その報復として、ベルファストIRAが企画し指揮したBloody Fridayは、ユニオニストの若者たちを激怒させた。UDAは当時非合法組織ではなかったが(「自警団」だった)、「IRAという暴力」に対する「防衛」の意識を抱くことは当然のことだ、と多くの若者たちが考えた。

「暴力の連鎖」という言い方を、嫌う人たちもいる。でも1972年のデリーとベルファストで始まったのは、まさにその「連鎖」だった。

そのことを、特にロイヤリストでの武装活動の経験者の手記を読んで確認する作業は、さして難しくない。(1972年に10代だった世代の人の手記なら必ず書かれていると思う。)

※この記事は

2012年07月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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