「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年06月28日

「和平プロセス」の終わり

1994年のIRA停戦からとするか、それとも1998年のグッドフライデー合意から数えるか、いずれにせよ北アイルランドの「和平プロセス peace process」は90年代に開始された。

それが軌道に乗ったのが2006年10月(DUPがついにYesと言った、セント・アンドルーズ合意)のことで、形になったのが2007年(2002年にサスペンドされていた自治議会・政府の再起動と武装闘争の終結)、そして「もう後戻りすることはない」とストーモント(自治議会・政府)の誰もが確信を持って口をそろえたのはごく最近のこと、たぶん2010年以後のことだ(2010年6月に、1972年1月30日のブラディ・サンデー事件の最終報告書が出されているが、それが大きな節目となっている。つまり「過去」を「過去」とする作業ができた、という意味で)。

そして2012年6月27日、ダイヤモンド・ジュビリー(即位60年)の国内巡回でベルファストを訪れていた女王夫妻と、「リパブリカン」としてストーモントに議席を得、「北アイルランドで二番目に大きな政党」として自治政府で副ファーストミニスターの地位にあるマーティン・マクギネスが対面し、言葉を交わし、握手をしたことによって、「和平プロセス」は終わった。



女王は黄緑色というか若草色のお召し物(すばらしく手の込んだ生地)で、マーティン・マクギネスは緑色のネクタイをしていた。2人はアイルランド語であいさつを交わしたという。ここまでシンボリックに「アイルランド」を強調した社交の儀式が、(ダブリンではなく)ベルファストで実際にあった。

近年毎年3月17日のベルファストが緑色に染まっていて、ますます多くの人々が「ノーザン・アイリッシュ」というアイデンティティで自分たちのことを語るようになっているが、そんなことも、少し前には考えづらいことだったのだ――「UKの一部」たる北アイルアンドでは。

これから先にあるのは、もう「プロセス」ではない。「和平」はすでに完全なものとして――それでもむろん「完成されたもの」ではないが――そこにある。







※キャプチャ画像はすべてクリッカブル。画面中のハイパーリンクをクリックすると記事が読めます。

Twitterでは、「握手」の関連のことばがいくつも、Trending Topicsに入っていた(地域はUK)。



これらの中から、「IRA」を見てみた。



UTVのライヴ・ブログ。イベントが終わったあとはすごくいい資料集になっている。
Live Blog: Day Two of Queen's visit
Published Wednesday, 27 June 2012
http://www.u.tv/News/Live-Blog-Day-Two-of-Queens-visit/3bf7f6eb-f29a-4f11-9813-ca513df1d60a

私のTwitterのNIのリストのログはChirpstoryに。
http://chirpstory.com/li/11843
※「こんなに読めるか」というくらいに記事がどかどか出ている。

「おお」と思いながら見たのがデイリー・テレグラフの「マーティン・マクギネスの歩み」の写真特集。
http://www.telegraph.co.uk/news/picturegalleries/uknews/9359356/Martin-McGuinness-From-IRA-chief-to-deputy-Northern-Ireland-First-Minister.html

「和平プロセス」の前や、同プロセスがまだ不安定だったころは、マクギネスの隣はほぼ常にジェリー・アダムズ。プロセスが軌道に乗って安定期に入ると、マクギネスの隣はイアン・ペイズリー(これも見慣れるまでに時間かかったんだよなあ)。そして「もう元に戻ることはない」という段階では隣はピーター・ロビンソン。今日もピーターが、非常にいい顔(穏やかな、リラックスした表情……昨年5月のダブリンでの晩餐会のときの表情とはまるで違う)でマーティン・マクギネスの隣に立ち、また女王夫妻を案内していた。

そのピーターは、イアン・ペイズリーとマーティン・マクギネスが正副ファースト・ミニスターとして仕事を始めたころはまだ、仏頂面だった(仏頂面なのはペイズリーの息子も、ナイジェル・ドッズも同じ)。このころ既にシン・フェインのほうは笑顔だった(ジェリー・ケリーを見よ)。

そんなことも、デイリー・テレグラフの写真集で確認できる。

そして、ニュース系を全部チェックし終わったら、Sluggerで仕上げ。コメント欄も安心のSOクオリティ。
Martin's handshake lifts another layer of fear from the legacy of the Long War ...
Mick Fealty,
Wed 27 June 2012, 1:48pm
http://sluggerotoole.com/2012/06/27/martins-handshake-lifts-another-layer-of-fear-from-the-legacy-of-the-long-war/

(;_;) Long War. 大文字で始めてLong War.
http://en.wikipedia.org/wiki/Provisional_Irish_Republican_Army#The_.22Long_War.22
Thereafter, the IRA, under the leadership of Adams and his supporters, evolved a new strategy termed the "Long War", which underpinned IRA strategy for the rest of the Troubles. It involved a re-organisation of the IRA into small cells, an acceptance that their campaign would last many years before being successful and an increased emphasis on political activity through Sinn Féin. A republican document of the early 1980s states, "Both Sinn Féin and the IRA play different but converging roles in the war of national liberation. The Irish Republican Army wages an armed campaign... Sinn Féin maintains the propaganda war and is the public and political voice of the movement". ...


そして今日のこの握手を「ヒストリックだ」、「偉大なシンボルだ」と歓迎する声ばかりではない、ということも。

‘Disgusted’ at Queen meeting
http://www.derryjournal.com/news/local/disgusted-at-queen-meeting-1-3990326
(1972年1月30日、ボグサイドで最初に銃撃され負傷したデイミアン・ドナヒーさん。)

※この下、Twitterのログを入れる。

※この記事は

2012年06月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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