kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年06月20日

疑う、ということ〜「よかった、ミサイルを2発くらって肉片にされた女子高生はいなかったんだ」(?)

日本語と英語の間で、同じ概念を表そうとしているときに、一見同じように見えても何か違うなあ、ということがある。例えば日本語の「迷う」はとても豊かな表現で、英語ではぴったりくる言い回しがどうもない(1対1で対応する訳語がないので、場合によって状況を考えて英語化するのだが、どうしたって余計な「意味」がついてしまう)。一方で、「疑う」という概念は英語のほうが豊かで、doubtもあればsuspectもある(両者の「意味」の違いは、まともな英文読解が前提される場合は大学受験の対策で必ずやるはず)。skeptic, skepticalという形容詞もある。

このskepticalということの価値が、日本語圏では、どうにも理解されていないような気がすることがある。単に個人的な感覚にすぎない(過敏になっているだけ)かもしれないが、これをどう日本語にしてみたところで、「ひねくれている」、「素直じゃない」といった《マイナスの価値(とされるもの)》が常につきまとっているような感じがする。Skepticであることが、何か「悪い」ことであるかのような。

しかし実際には、skepticismは健全な思考には欠かせないものだ。

その態度を忘れているときは、自分が何かに熱中していたり、没頭していたり、夢中になっていたり、とても感情的になっていたりするときだ。

以前、引退した盲導犬についての読み物がベストセラーになったことがある。その犬が最後にこの世を去るときの描写がまさに「お涙ちょうだい」で、私も読みながらざばざば泣いてずるずると鼻をすすっていた。しかし、(T_T) ←こんな顔をしている私から本を受け取ってそこを読んだ妹は、突然、「犬って汗腺、ないよね」と言った。私は、まさに「はっ」とした。「汗をかいて、苦しそうに喘ぎながら飼い主と最後の時を過ごすわんちゃん」のイメージが、急速に消失した。妹の言うとおり、犬は、汗をかくことはできない。

これなんかは、完璧に、「書き手が勢いづきすぎた事例」であろう。決して「事実をないがしろにする」つもりではなく、単にノリすぎてしまったのだろう。実際、「泣かせる」という機能に関しては、一連の流れと描写はすばらしく効果的だった。でも、「嘘」なのだ。「流れ」の外からは、「なんであれに気が付かないんだろう」というほどにわかりやすい「嘘・偽」が、「流れ」に乗っている人には見えない。わからない。英語ではbe carried awayという表現があるが、それがまさにしっくりくる。「流れ」を作る名手の文章は、実はよく読むとそういう「変なところ」がちょこちょこ(あるいはいっぱい)あったりもする。だから、常に「冷静」は必要なのだ。Keep calm and don't be carried away.

そんなことを思わされることがあった。

【鵜呑みにしないで!!】米国の「無人機戦争」について、ソースのない話が広く出回っているらしい。
http://matome.naver.jp/odai/2134017640182284901

(そもそもパキスタンのトライバル・エリアで「女子高生」がいるのかどうかから事実確認を始めなければならないような気がするが……カラチなど都市部は相当に「開明的」としても、米国のドローン攻撃にさらされている地域はそうではなかろう。)








なお、この「肉片にされた女子高生」はいなかったんじゃないか、と検討することで、私はドローン戦争というもののひどさを矮小化したいわけではない。むしろ逆だ。

上記「まとめ」に入っているBBCなどの記事や、TBIJの調査のまとめ、カンファレンスのLive tweetのログ、またそのほかジェレミー・スカヒル(今はイエメンを見ている)、ミカ(マイカ)・ゼンコーといった人々の記事や論文を読めば、この「ドローン戦争」の深刻さは、「殺人機械にいきなり肉片にされた女子高生」が実際にいようといまいと、変わらない、ということがわかるだろう。

根本的な問題はこれですよ、これ。ジブラルタルのDeaths on the Rockのような。
http://en.wikipedia.org/wiki/Extrajudicial_killing

※この記事は

2012年06月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:33 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼