「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2012年06月02日

「ホスニ・ムバラクに終身刑」という衝撃の判決が見出しになっているけれども、「革命」にとって一番重要なところは「無罪」だったことが見過ごされていないか。

6月2日、エジプト、カイロの警察学校で、ホスニ・ムバラク元大統領とその息子たち(ガマル、アラア)、およびハビブ・エル=アドリ元内務大臣をはじめとする内務省当局者(内務警察上層部)の裁判で、判決の申し渡しがあった。

大きく分けて、一般の人々に対する暴力の行使と、不正蓄財の2つの裁判が同時に行われていた。事前の感触では、不正蓄財で軽い刑罰が申し渡され、暴力の行使では証拠不十分で無罪になるのでは、という感じだった(内務省の文書は、昨年5月だっけ、プロテスターがなんとか保全しようと内務省に押し入ったときにはすでにシュレッダーにかけられたり燃やされたりしていた)。

しかし今日示されたのは、ホスニ・ムバラクとハビブ・エル=アドリに終身刑という予想外の結果だった。(もちろん、不服があれば上訴する権利はある。)

一方で、内務警察上層部は全員が「無罪」。ムバラクの息子たちも「無罪」だった。

私はアルジャジーラ・イングリッシュでの生中継(同時通訳)をウェブで見ていた。警察学校(裁判が行われている施設)の前に集まった「革命」側の人々は、元大統領に「終身刑」が言い渡された瞬間喜びに沸いていた。私も半ば信じられないような思いでそれを見ていたが、同時通訳を聞いているうちに「いやー、これは……」というか、用済みになった元トップを切断処理して本体はのうのうと生き延びてますね、という話だな、と……。

アルジャジーラのアダムさん:



こういったことを、今「まとめ」ている。
http://matome.naver.jp/odai/2133864053005340101


※この記事は

2012年06月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:57 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼