kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年05月20日

6月18日、「あの日」がまためぐり来て、「あの日」と同じ対戦カードで、アイルランド代表は喪章をつけてピッチに立つ。

「アップデートしなきゃ」と思っていたのだが、気づけば1年近く経過していた。

1994年6月18日、ワールドカップ米国大会でのアイルランド対イタリアの試合を観戦していた「カトリック」の人々に、UVFの銃弾が浴びせられ、6人も殺された「ハイツ・バー銃撃事件」(Loughinisland, Co Down) についての警察オンブズマン報告書が、2011年6月に出ていた。これがまた、まあ、そういう内容なんすわ。一番重要な要素について完全無視というか、言及しもしないという圧倒的スルー力(するーりょく)を発揮。あまりのことに呆れてしまった……というか、昨年の時点では「ハシゴ外された気分」(2010年6月の、ブラディ・サンデー事件報告書のときのキャメロン首相の言葉を、まだ少しは信じていたかった。今はもうそんな気持ちもまったくないが)。

ともあれ。

で、今年のEuro 2012で、アイルランド共和国はイタリアと同組になり、そしてあの事件と同じ6月18日に、イタリアと対戦する。その試合で、アイルランド代表は喪章をつけてピッチに立つことになった。銃撃事件被害者遺族の働きかけでFAIが動き、UEFAに交渉したのが通ったのだそうだ。

遺族は英治安当局とUVF銃撃犯のつながりについて、疑問を呈していた。警察オンブズマンが動いたのは、その点についての調査のはずだった。しかし結果はあれ。端的に言えば英国政府(具体的にはNIO)の態度が、警察オンブズマン報告書での「スルー」という結果に結びついている。今回の「アイルランド共和国代表の喪章」はそれが背景にあることだ。もちろん、個人個人としては「あの日と同じ」ことでの「追悼」の気持ちが第一義的なものであろうが、よりマクロの視点では「あまり政治的でない筋」(つまり、「政党」や「政治家」ではない筋)からの、非常に「政治的」な働きかけである、ということには違いない。

そういった点を含め、昨年のオンブズマン報告書から、これまでのことを、ざーっと「まとめ」ておいた。「読みやすさ」はあまり考えていないのでその点はご容赦いただきたい。

アイルランド代表が、6月18日の欧州選手権の試合のピッチで喪章をつける理由
http://matome.naver.jp/odai/2133741446506928901



※この記事は

2012年05月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼