「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2012年05月10日

英語の人称代名詞と、性的アイデンティティ

日本語は楽でいいと思う点のひとつは、人称代名詞だ。一人称は性別に強く固定されているが(「僕」、「俺」は男しか使わないものとされる、などという点で)、二人称はまったく使わないか(How are you? と言いたいときは「元気?」でいい)、「あなた」などを使わず名前でいい(Have you heard this? と言いたいときは「○○さん、この件、聞いた?」などと言う)。三人称は固有名詞でなければ「あの人」とか「先生」といった言い方をし、代名詞はまず使わない(「彼」、「彼女」を使うのは、よほどでなければ翻訳くさくなる)。固有名詞の繰り返しになっても、「稚拙な文」には見えない。それどころか、優れた書き手の手に掛かれば、「繰り返し」は非常に印象的にもなる。

その例として、あまりに有名なこの書き出し。(私は作品は全然好きではないがこの書き出しはかっこいいと思う。)
 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。……

太宰治『走れメロス』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html


英語ではそうはいかない。同じ語が「執拗に」繰り返されることのないよう、適切なところで適切に代名詞を使い、あるいは言い換えをしなければならない。「メロス」の例でいうと例えばこんなふうになる。日本語で見るともっさりするが、英訳(したと想定したもの)はちょうどいい塩梅のはずだ。
 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。この○○歳の青年には政治がわからぬ。彼は、村の牧人である。彼は笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども彼は邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明この○○村の牧人は村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。彼には父も、母も無い。女房も無い。彼は十六の、内気な妹と二人暮しだ。……

さて、ではこの文章の書き手が、「メロス」の性別について明らかにしたくない場合はどうすればよいのだろう。

日本語では実は、「牧人である」、「笛を吹き、羊と遊んで暮して来た」といった描写から読み手が勝手に「男性である」と読み取り(そのような仕事をするのは男性である、という前提がある場合)、「女房も無い」でそれが裏づけされている。逆に言えば、例えば次のようにすれば、「○○○」は性別が確定されぬままになる。
 ……○○○には政治がわからぬ。○○○は、村に暮らしている。日の出とともに起き、泉で水を汲むというように暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明○○○は村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。○○○には父も、母も無い。結婚相手も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。……

百科事典的な記述でも、基本的には同じことだ。あるいはもっと徹底的に、「性別」への言及がなくなる。例えば下記は、ある著名な人物についてのウィキペディアの記述だが、人称代名詞を一切使わず、どこにも性別の手がかりがない。(引用にあたり、一部、冗長になる固有名詞などを除去した。)
 東京市本郷の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。1899年、13歳のとき、姉を頼り岡山の学校に入学。姉の夫に西洋音楽の手ほどきをうける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校声楽科を卒業。
 1910年から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年には日本人初の交響曲を作曲した。

同じ人物について、英語版ウィキペディアではこうなっている
After studying at the Tokyo Music School, he left Japan for Germany where he enrolled in the Berlin Hochschule and learnt composition, before going to the USA for two years.

こんなことを書いているのは、この件に関連して、英語で「人称代名詞」をめぐる/についての論争を見かけたからだ。


「論争」そのものを見ても話がわからないので、その「論争」を内包する報道記事を見る。

上に引いたのはAP通信の記事で、次のように記述されている。
The 31-year-old tells Rolling Stone that as a kid he felt disconnected from his body and has a condition called gender dysphoria. He plans to take hormones and undergo electrolysis. He also is considering gender reassignment surgery.

しかし、このニュースの元である米Rolling Stoneの予告記事(インタビュー本体は金曜日にならないと読めない)では、下記のように記述されている。
Gabel will eventually take the name Laura Jane Grace, and will remain married to her wife Heather. ...

Gabel only told a handful of family and friends about her plan to transition before talking to Rolling Stone. ...

The full story of Gabel's transformation is in the latest issue, on newsstands this Friday (May 11th). In it, the singer tells Josh Eells about her history of gender dysphoria, ...

http://www.rollingstone.com/music/news/tom-gabel-of-against-me-comes-out-as-transgender-20120508

この件でAP通信のような書き方をしているのは実は少数で、他の音楽メディア(Pitchfork, Spinnerなど)も、一般の報道も、Rolling Stoneと同じように、代名詞はsheを用いている。

Rolling Stoneの記事に掲載されている写真を見ると、「この人をheと呼ぶのは失礼だろう」(最初からsheである者ではなく、明確な意思をもってそのshe-nessを獲得した人であればなおさら)と誰もが思うだろうが、あいにく、この写真はRolling Stone独占で、他の記事は(本人の内面はいざ知らず、外面としては)「男性」の名で「男性」として活動している「トム・ゲイブル」の写真を使っている。

記事中での名前は「トム・ゲイブル」で、「トム」を受ける代名詞が「彼女」ということになっている。

それに、記事では「これから女性になる」という書き方だ(未来を表すwillやbe+to不定詞が用いられている)。これは「ゲイブルはまだ女性ではない」ことを意味するのか?

いや、ゲイブルは「既に女性である」から、この決意をしたのだろう。

……かくして、議論は続く。本人の言葉のないところで、延々と。それに仮託されているのは「ゲイブル本人の気持ち」ではない。その議論をしている話者の気持ちだ。

heとすべきかsheとすべきかの議論を少し読んだところで、正直、そんなことはどうでもいいと思う。本来、重要なのは、そこに「人」がいることと、その人が「自分はこうである」ということに安心していられるかどうかどうか、ではないか。その人がheであるかsheであるかではなく。

逆に、ネットで論争になってしまうほど人がheかsheかにこだわるのは、その言語では、heかsheかのいずれかを選ばなければ文章を書くことができないからに過ぎないのではないのか。そしてそれは、ただの習慣ではないのか。(多くの人が「外国語」と無邪気に言うとき、そこに内包される「国」の概念は何なのかと問いたくなるが、それは確固たる理由などなく、ただの言語的習慣、つまり耳慣れているかどうかである可能性のほうが高い。)

しかし、自然が芸術を模倣するように、言語は現実を規定する。「これは美しい風景である」という芸術の基準があってはじめて「美しい自然」が認識されうるものとなるように、何らかの言語的表現が与えられてはじめて現実の事象は描写されうるものとなる。

そして、その言語的表現が《対象》について縛りの大きなものであればあるほど(縛りとは例えば「テニスコートは《面》で数えるが、家は《面》では数えない」など)、《現実》を規定する強制力は強くなる。英語では、3人称の単数の人間は、必ず、heかsheかを決めなければならない(heかsheのいずれかである)。木曜日の夕方6時、「山田係長」は「彼の」もしくは「彼女の」パソコンをシャットダウンする。「鈴木記者」は「彼の」もしくは「彼女の」名前を名乗って、「高橋大臣」に「彼を」もしくは「彼女を」会食に招いたのは誰かと質問をする。「佐藤」は「彼の」もしくは「彼女の」バンドのメンバーに「明日のスタジオ、1時間延長取れた」とメールする。これだけの《事実》を、特に何らの思想なく淡々と書こうとするだけで、これだけの人称代名詞をこなさねばならない。それが英語だ。一方で、「山田係長」と「鈴木記者」と「高橋大臣」と「佐藤」のうち2人以上が同じバスに乗っていれば、そこからは性別は消えるのだが(they, themで呼ばれる)。

日本語なら「山田係長はパソコンの電源を切った」、「鈴木記者は自分の名前を名乗ってから、高橋大臣に、大臣を会食に招いたのは誰かと質問をした」、「佐藤はバンドのメンバーに、『明日のスタジオ、1時間延長取れた』とメールした」で済む。

トム/ローラ・ジェイン・グレイス・ゲイブルの今回のニュースについて、どちらの人称代名詞が使われようと、誰にとっても何ら違和感のない状態というのは、おそらくないだろう。仮に記事の記述を100パーセント額面どおりに受け取って、「これから女性になる」のだと考えた場合、厳密に考えればまだ「ローラ」ではないのだから「彼女」と呼ぶのはおかしいと言う人がいるだろうし、一方で「当事者性」を重視すれば、本人は既に「ローラ」のアイデンティティを獲得しているのだから「トム」扱いはおかしいと感じるだろう。誰にとっても「正しい」表現というのは、さほどありふれたものではない。

ついでに言うなら、今、人々が何の疑問も持たずにhe/sheで呼んでいる人が、自分がhe/sheと呼ばれることについての違和感を抱いていない、という保障もない。言葉などというのは、本質的に、その程度には不確かなものである。

その点、何も考えることなく、主語を示さないか、主語を人名で「ゲイブルは」で統一して書くことのできる日本語は、楽だ。楽である分、「考えないのが楽」という状態ができていて、「突き詰めて考える」ということはしづらいのかもしれないが。

さて、日本語で見ていても「よしなしごと」にしかならないので、過去、男性から女性になった人についての英文の記述を見てみた。

2004年に男性から女性になったジェスロ・タルのキーボード、ディー・パーマー(元デイヴィッド)のウィキペディアは、過去に遡ってsheで表されている:
http://en.wikipedia.org/wiki/Dee_Palmer



1960年代にホルモンの投与を受け始めた作曲家のウェンディ・カルロス(元ウェイン)も同じ:
http://en.wikipedia.org/wiki/Wendy_Carlos



世界で最初に男性から女性への転換手術を受けたアメリカ人、クリスティーン・ジョーゲンセン (1926-89) についても同様だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Christine_Jorgensen
Jorgensen grew up in the Bronx and later described herself as having been a "frail, tow-headed, introverted little boy who ran from fistfights and rough-and-tumble games".

しかしここには興味深い記述の例も見られる。
According to an obituary, "With special permission from the Danish Minister of Justice, Jorgensen had his [sic] testicles removed first and his still-undeveloped penis a year later. ...

ジョーゲンセンが亡くなったのは1989年。オビチュアリが出たのも1989年だろう。その当時は、MtoFの人であっても、過去に遡って(いわば機械的に)人称代名詞が女性化されることはなかったようだ。今なら問答無用状態で「彼女のテスティクルズ」と表記されていただろう(本人が拒否すれば別だろうが)。そして「女」には取り除くべき男性器はないはずだ、と考える人は、こういった表記に混乱させられるだろう。

あと、90年代の米東海岸のRoadrunner系バンド、Life of Agonyのシンガーが、2011年に女性として活動していくと宣言したそうだが、彼女のことがどう言語化されているかは興味深いものがある。まず、彼女自身が、Keith Mina Caputoという名前を使っている(自分では「ミーナ」の名前を積極的に使っているが、ファンが「キース」と呼びかけることは構わないというスタンスらしい)。
http://www.keithminacaputo.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Keith_Caputo

Bioのページを見てみると、校正漏れかもしれないが、heとsheが混在している。
The past ten years have seen Caputo record seven albums ... . On the festival circuit, he has shared stages with titans like ... Nine Inch Nails, Björk, David Bowie, Pixies, and Foo Fighters.

With influences ranging from Led Zeppelin and The Doors to Arthur Rimbaud and William S. Burroughs, Caputo is equal parts stalwart rocker and literary outlaw. Whether bellowed or whispered, her lyrics are equally disarming for their soul-baring menace, their palpable alienation, their vulnerability, and their grace. ...

Obsessed with hard truths, Caputo remains an intrepid conquistador of her own pain. Orphaned by heroin-addicted parents, she was forced to grow up in a dark world of poverty, violence and crime. ...

一方でウィキペディアでは、なるべく代名詞を使わないように書かれていると見受けられるが、徹底してsheが用いられている。
After signing with Roadrunner Records, they debuted with the 1993 album River Runs Red. Shortly after the release of a third album in 1997, Caputo claimed that her heart was no longer in the type of music they performed and left the group.

日本語なら「彼女の心は」などと書くことなく、「このタイプの音楽にはもう心残りはないとカピュートは述べて、脱退した」といったように、人称代名詞を使わずに書ける。(というか、人称代名詞を使わないのが普通。)しかし英語では、ここはどうしても人称代名詞が必要だ(間接話法)。

しかしこれは、Life of Agonyをまったく知らない人が読んだときにこのバンドについて正確な情報が得られないのではないかと危惧してしまうレベル。文章だけ見てると、「女性ヴォーカルのメタルバンド」であるかのように見えるのだ。実際にはこういう感じ。(当時、どういう売られ方をしていたかはもう全然記憶にないが、たぶんグランジとミクスチャーの流れでの「男臭い音」だったと思う。Roadrunnerだし。)

キース・ミーナ・カピュートのように近い出来事だとものすごく大きな違和感があるのだが、これが時間的に遠いところで、なおかつ音声資料などに接するのが難しいところで起きたらどうなるか。あるいはシンガーであるカピュートとは異なり、その人の声などこちらが気にしたこともないという人ならどうか(ジェスロ・タルのパーマーはキーボーディストだからそうだ)。たぶん気がつかないか、気にしないだろう。

実際に(本人の内面で「自分は男である」ということに違和感をおぼえながらであっても)男性として活動していた人が、後にカムアウトし性別を変えた場合、性別を変更したからということでその人の全生涯をsheとして書き記すことは、《歪曲》の意図(いわば「悪意」)はないにせよ「歴史修正」にあたるのではないか(少なくとも、過去にまで遡及適用しているのだが、これはどうなのかな……)。

同じことが政治的主義主張について言えるかというと、言えないだろう。例えばジャック・シラクは昔は左翼活動家だったが(フランス共産党)、後に右翼政治家となった。この場合、若き日のシラクについて、後に右翼になったとの前提で文言を書き改めることはできない。特に何の意図もなく、淡々と事実を書くつもりで(淡々と事実が書かれているはずの文章を読みたい読者に向けて)、共産党時代に「シラクがビラを配った」という文章を「後に右翼政治家となるこの青年がビラを配った」などと書けば、無用な混乱を招くだけだ。

あるいは信仰ではどうか。ジューイッシュとして生まれ育ち、20歳を超えてから信仰を捨てるなり、仏教徒になるなり、キリスト教徒になるなりした人は大勢いる。そういう人が、仮に後に「子供のころは単に親の言うなりだった」と述べて宗教を全否定し、無神論の「教祖」(という表現もおかしいのだが)的な存在になったとしても、13歳のバーミツバのお祝いをしていなかったことにすることはできない。(なかったことにしている記述は、虚偽の記述である。)

(と、これ実は日本語圏ではあったりまえのようにある例のあれじゃん。つまり本人はカトリックであるときにウィキペディアには「ユダヤ系」と書かれている、みたいな。)(今見たらジャック・シラクまで「ユダヤ系」ということにされているんだが、意味あんのか、それ。)

……ということを考える必要のない日本語を日常で使えることに感謝。日本に生まれてよかった(はぁと)

※ビーイング・サーカスティック注意報。



トム/ローラ・ジェーン・グレイス・ゲイブルのカムアウトでの典型的議論の一部。こういう議論のサンプル取りたい方は、Rolling Stoneの記事へどうぞ。



RS以外の記事は下記に一覧で。
http://matome.naver.jp/odai/2133654759332315901

※この記事は

2012年05月10日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 09:30 | TrackBack(0) | 言語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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