◆「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

◆「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年05月01日

「どちらの側にも差別はあった」と明言し、50年前について触れた5年前の記事を、今読む。(アイルランド・北アイルランド)

昨日の2つのエントリの続き。

2012年04月30日 アイルランド、語られることのほとんどなかった「プロテスタントへの暴力」について、RTEのドキュメンタリー番組がオンラインで
http://nofrills.seesaa.net/article/267742656.html

2012年04月30日 真実を語ること、真実が語られることを邪魔しないこと(アイルランド)
http://nofrills.seesaa.net/article/267842665.html

これらを書く際に参照したオンラインの文書のひとつに、2007年3月のThe Irish Examinerの記事がある。

2007年3月。おわかりだろうか。


これが2007年3月26日、月曜日だった。

今回読んだThe Irish Examinerの記事はその前の週の土曜日、つまり(新聞の発行日的には)この「歴史的会談」の前の日の、論説記事である。なお、この新聞はコークを本拠とする全国紙である。

If Paisley finally says ‘yes’, we in the South are in no position to gloat
By Ryle Dwyer
Saturday, March 24, 2007
http://www.irishexaminer.com/archives/2007/0324/ireland/if-paisley-finally-says-yes-we-in-the-south-are-in-no-position-to-gloat-28609.html

これが、5年後の今のリアルタイムのニュース(DUP党首はメイズ刑務所跡地の「紛争解決センター」を歓迎し、シン・フェインの2トップのひとりはロンドンで「連合王国」の再考を呼びかけている)にどのようにつながっているか、ということも、自然、視野に入ってくる。その「歴史の動き」を遠くから見つめてこられたのは、おそらく非常に幸運なことだっただろう。むろん、「終わり」は見えていないけれども、「戻る」ことはない。それが何度も断言され、何通りにも語られているのが、「あのペイズリーがついにYesと言った日」から5年後の光景だ。


※マクギネスのこの発言があったOSCEの会議については:
http://matome.naver.jp/odai/2133550480743016901

2007年3月24日のThe Irish Examinerの記事の概要:
http://www.irishexaminer.com/archives/2007/0324/ireland/if-paisley-finally-says-yes-we-in-the-south-are-in-no-position-to-gloat-28609.html

書き出しが、まず、印象的だ。
THE moment of truth is approaching in the North. On past performance one might be hard pressed to believe Ian Paisley is finally going to say ‘yes’.

But if he is ever going to do so, it will be on Monday simply because he is unlikely to have another chance.

(北部で「その時」がやってこようとしている。これまでどのようなことがあったかを考えれば、イアン・ペイズリーがついに「Yes」と言うことになると考えるのは難しいかもしれない。しかし、本当にそういうことになるのなら、それが起きるのは週明けの月曜日だ。それを逃したらもう二度とチャンスはないだろうから。)


続いて記事は、「先の選挙で、有権者の大半はdevolutionに賛成する候補に票を投じた」と進む。

「先の選挙」は2007年3月7日の北アイルランド自治議会選挙だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Northern_Ireland_Assembly_election,_2007

この半年ほど前の交渉で2006年10月、それまでの膠着状態を打破する「セント・アンドルーズ合意」が成された。これは、シン・フェインが北アイルランドの警察を支持することと、DUPが北アイルランド自治政府での「権限分譲 power sharing」を支持すること(後者は1998年GFAも参照)を、言い方は乱暴だが「セット販売」した合意だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/St_Andrews_Agreement

シン・フェインは明けて2007年1月の党大会で、圧倒的多数で「警察支持」を議決した。
http://nofrills.seesaa.net/article/32337973.html
日曜日、28日のシン・フェイン党の臨時党大会@ダブリンで、党は北アイルランド警察と司法(刑事裁判)をサポートしていくという内容の党執行部の提出した動議(動議そのもの@BBC)は、90パーセントもの賛成票を得た。

つまり、シン・フェイン党は政治団体としての歴史が始まって以来初めて(つまり1905年以来初めて)、「英国」の「法と秩序(law and order、つまり警察と裁判所)」を受け入れた。

【注】ここで「英国」とカギカッコで示しているのはリパブリカンのナラティヴからの引用であることを示す。念のため。

そうして行われた2007年3月の自治議会選挙は、事実上、この合意を認めるか否かの北アイルランドの人々による意思表示の機会であった。DUPとシン・フェインはこの合意の主役で、UUPとSDLPももちろん賛成、当時はまだ議席があったPUPも賛成。というより、不賛成だった政治勢力で、現在も少しは意味があるのは、「DUPは日和った」としてDUPを離脱したジム・アリスターの一派(2007年12月に新党Traditional Unionist Voiceを結成。2012年に至るも自治議会の議席は1)くらいなものだ。

(ただし武装勢力の態度は別の話。このころから明確に、「リパブリカニズムに対する裏切りをおこなったシン・フェイン上層部」がディシデント・リパブリカンの攻撃対象となっていく。旧来の「リパブリカン対ロイヤリスト」の構図は、リパブリカン側からはもう古いものとなっていた。実はここがわかりづらい。)

The Irish Examinerの記事は、セント・アンドルーズ合意に反対したUKUPがこの選挙で議席ゼロになったことに注目しているが(UKUPは「自治」を完全否定し、ロンドンからの直轄統治を主張する、ユニオニストの中でもフリンジの存在だったが、アイルランド共和国のコナー・クルーズ・オブライエンが加わっていた)、UKUPは2008年に消滅しており、今はもう「過去」に属している。
http://en.wikipedia.org/wiki/UK_Unionist_Party

「何がイアン・ペイズリーにYesと言わせたか」については、今なお十分には語られていないが、記事はここで、おそらく非常に重要なキーとなっていたであろうファクターを指摘する。「カネ」だ。
The British and Irish governments have now paved the way with gold in the form of an extra £1bn for the new executive to spend. Of that amount, the Irish Government has promised £400m if devolution is restored on Monday. That is on top of £35bn already allocated by the British government.

If Paisley and company turn down the £400m pledged by our Government, see if we care! Not going ahead with the new Assembly on Monday would betray the democratic will of the Northern people.

このあとはしばらく、現在では意味のなくなった「もしDUPがNOと言ったら」という過程に基づいた解説があり、その後、イアン・ペイズリーの「ドクター・ノー」伝説。

... He relished the spotlight in opposition over the past 50 years, but this island has changed in that period.

Next month, it will be exactly 50 years since Paisley, then an obscure Northern clergyman, became involved in the Fethard-on-Sea controversy.

そう、4月30日のエントリで見たアイルランド南部の街での「プロテスタントに対するボイコット」騒動。これにイアン・ペイズリーも口を出していた。

「北アイルランド紛争」について、「あれは北でのことで、南は関係ない」とすることは、少なくともアカデミックな態度としては完全に間違っているのだが、これもまたその要素のひとつだ。つまり「北」の「プロテスタント」たちが「南」を忌み嫌った理由のひとつ。彼らの嫌悪は無根拠なものではなかった、ということだ。

The Irish Examinerの記事から:
1957年4月、ウェクスフォード州フェザード・オン・シーの助任司祭、ウィリアム・スタッフォード神父から、あなたの意思に関係なく、お子さんたちはカトリックの学校に入れなさいと言われ、シーラ・クローニーは北アイルランドに逃れた。彼女はこの地域出身のプロテスタントだったが、結婚相手はカトリックで、Ne Temere decreeにしたがって子供たちはカトリックとして育てると約束をしていたのである。

シーラの父親(プロテスタント)の手助けで彼女は北アイルランドに逃れたが、このため、スタフォード神父は歪んだ正義感から、町のプロテスタントの商人たちを犠牲にしようとした。神父のイニシアティヴで町の人々は、素朴なことに、こうすればシーラが教会の指導に従うだろうと考えて、町のプロテスタントの商店をボイコットした。

ひとつの町の論争だったものが、国際事案となってしまった。

後にイアン・ペイズリーとともにDUPを設立することになるデズモンド・ボール (Desmond Boal, 弁護士) が、シーラ・クローニーのケースを手がけた。北アイルランドの(当時の)自治政府首相、ブルックバラ卿は「フェザード・オン・シーでの残念な出来事は、もしも北アイルランドが全アイルランド島の共和国に急襲されるようなことがあればどんなことがありうるかということを、アルスターのロイヤリストに思い起こさせるものだ」と述べた。

ジョン・ダルトン枢機卿と6人のビショップを含むウェクスフォード教区での説法で、ゴールウェイのマイケル・ブラウン司教は、宗派に基づいたボイコットを認めた。司教はこれを、「カトリックの子供を篭絡し、または誘拐してその信仰を奪おうとする組織的な動きに見えるもの」に対する「平和的で穏健な抗議」であると述べた。

その週のうちに、国会で時の首相エイモン・デヴァレラは勇敢にも(注:当時のカトリック教会にたてつくことがいかに大変なことだったか……)このボイコットを「発想の段階からまずく、思慮も浅く、不毛なもの」と批判した。

後に労働党の党首となるブレンダン・コーニシュは、次のように首相に質問した。「わが国のこの地域で、カトリックの子供たちを誘拐するようなことをある種の人々が共謀することはないと、首相は断言できますか」。デヴァレラは悪意でしかないこの質問を無視した。

(シーラの夫の)ショーン・クローニーは、最終的に、妻がオークニー諸島にいることを突き止め、自分でそこまで行って、妻と和解した。シーラは子供を連れてアイルランドに戻り、子供たちは家で教育を受けさせた。1999年の映画、A Love Dividedはこの騒動に基づいている。

このボイコットから4半世紀後、またフェザード・オン・シーで別の助任司祭が問題を引き起こした。

地域の集会場の監督権を、ショーン・クローニーも一員であった委員会に拒否され、助任司祭のショーン・フォーチュン神父は地域にはびこる「邪悪な影響」を批判した。これはクローニーのことを指していたと考えられたが、1982年から87年の間にこのコミュニティをめちゃくちゃにしたのは、フォーチュン神父の邪悪な行為であった。神父はもし私が降ろされるようなことがあれば、コミスキー司祭も道連れにすると脅したのである。

1999年3月、フォーチュン神父は自殺した。私は無罪だ、私のことであれこれ言い立てる連中はみな嘘つきである、という遺書が残されていた。

実際にはフォーチュン神父の悪行を裏付ける証拠は揃っており、私は潔白だという彼の主張は何ら信頼できるものではない。……

この記事が書かれたのは2007年である。あの報告書が出る2年前だ。

記事が書かれる5年前の2002年、BBCがSuing the Popeという番組でフォーチュン神父のことを取り上げている。神父の自殺から3年後のことだ。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/correspondent/1879407.stm

神父がフェザード・オン・シーに配属されたとき、彼には既に子供に対する性行為(性的虐待)の疑惑があった。カトリック教会はそれを知っていて、それを明らかにしなかった。
When he was not controlling children in a myriad of carefully set up "youth groups", he was pressuring their parents for money, stripping the elderly of their savings and extorting millions of pounds from government employment schemes.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/correspondent/1879407.stm


ウェクスフォードはアイルランド南東部のファーンズ教区(Ferns dioceses)にあるが、ここではフォーチュン神父のほか20人以上の宗教者について、子供に対する性的虐待の疑惑があった、とThe Irish Examinerの記事は続ける。この教区での性的虐待の疑惑については、2005年に報告書が出ている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ferns_Report

もし50年前に、イアン・ペイズリーがそのようなことをおこなっている神父がいるなどと言おうものなら、その言い分が結局は正しいものであれ、ここ(アイルランド共和国)の人々は、あいつは病院送りにすべきだ、と反応しただろう。来週の月曜日にペイズリーがついに権限分譲に「Yes」と言うことになっても、この国の誰一人として、自分が勝ったと言うことはできない。すべての側に、誤りがあったのだ。

昨年(2006年)、マカリース大統領の発言が大騒動を引き起こした。大統領は、ナチスが「子どもたちにユダヤ人に対する非理性的な偏見を植え付けたのは、北アイルランドの人々が子どもたちに、たとえば、カトリックに対する非理性的な偏見を植え付けたのと同じ」と発言したのである。

大統領の発言は基本的にはおかしなものではないが、言葉が全然足りていない。もし「カトリックに対して、あるいはプロテスタントに対して」偏見を植え付けたと述べていたならば、何ら異論の余地のない発言だっただろう。北での偏見と非寛容はカトリックの側にもプロテスタントの側にもあるものだからだ。

大統領はこれを認識し、言葉が足らなかったことについて謝罪した。

このとき大統領だったメアリー・マカリースは、1951年にベルファストの北部、アードインに生まれている。アードインは2012年の今も緊張が高い地域だが、「北アイルランド紛争」ではめちゃめちゃ大変なことになっていた地域だ。1960年代終わりに「紛争」が本格化したとき、「カトリック」である彼女の一家は「プロテスタント」から追いたてを食らった。結婚式を挙げ、国内新婚旅行からベルファストの家に帰ると友人が2人殺されたというニュースが待っていた。そういう経験の持ち主である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_McAleese

Irish Examinerの記事はさらにこのように続く。
All our lives we have heard stories about discrimination against Catholics in Northern Ireland. Such discrimination unquestionably existed, but neither was there any shortage of intolerance on the Catholic side. We were blind to our own discrimination against Protestant values in the Republic. For decades we allowed unelected bishops to have a veto over public affairs.

Frequently their pronouncements had nothing to do with religion. They were entitled to their views, but they should not have been given a veritable veto.

This has little to do with Northern Ireland now, but it did legitimise many people's fears. We would be better able to understand the problems there if we were more conscious of own failings here over the decades.

北アイルランドでのカトリックに対する差別の話は、四六時中耳にしてきた。このような差別が存在したことには疑いの余地はない。しかしカトリックの側にも同様の不寛容が存在してきたことにもまた、疑いの余地はないのだ。私たちには、共和国でのプロテスタントの価値観に対する私たち自身の差別は見えていなかった。何十年にもわたって私たちは、選挙で選ばれたわけでもない宗教指導者たちに、公共の事態についての拒否権を与えてきたのである。

宗教指導者の布告が宗教とはまるで関係がないということは頻繁だった。むろん、どのように考えようとその人の自由であるが、それでも、万能の拒否権を与えられるべきではなかった。

これは今では北アイルランドとはほとんど関係はない。しかし、それは(北アイルランドの)多くの人々の恐怖に理由を与えたのだ。私たちが、この数十年に及ぶ自分たち自身の欠点についてより意識していれば、問題をよりよく理解できるであろう。

この文章では「前提」としてほぼ「いわずもがな」になっているが、北アイルランドでの「宗派に基づいた偏見」は、ほかの誰よりもイアン・ペイズリーその人自身の口から言葉として表された。ここではそれについては深くは見ないが、下記などを参照。とにかくものすごい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ian_Paisley#Religious_views

記事の最後は、1974年サニングデール合意で英国がようやくNIにおける「包括的公民権」(つまり「カトリック差別の撤廃」)に取り組むようになったが、シン・フェイン(と書いてはあるが、「IRA」のことだ)とペイズリーのような過激なユニオニストによってポシャった上に、アイルランド共和国の政治家が「サニングデール合意で設けられることになった全アイルランド委員会は、アイルランド統一に向けての重要なステップだ」と述べたことで北のプロテスタントの警戒が高まった、と位置付け、その上で、その当時と記事が書かれた2007年の、セント・アンドルーズ合意後の違いを踏まえてしめくくられている。

The whole island has accepted that partition can only be ended with the support of a majority of the people of Northern Ireland. If this is ever to be achieved, there will first have to be normalisation of relations between the two communities. Hopefully Monday will mark a new beginning, and our £400m will have been well spent.

「2つのコミュニティの間の関係の正常化 normalisation of relations between the two communities」。イアン・ペイズリーとマーティン・マクギネスという2トップ体制が発足してから5年、ペイズリーの引退をはさんで、その後継となったピーター・ロビンソンによるさらに踏み込んだ発言などもあり、英女王のアイルランド訪問もあり、アイルランド共和国と北アイルランドおよび英国の関係は着々と「正常化」している。カトリックのコミュニティとプロテスタントのコミュニティの間の関係も、おそらく「大きな物語」としてはそうだ。個別の「フラッシュポイント」ではまた、話が別かもしれないが、それでも、締め切られてきたピースウォールの通用門の一定時間の解放なども実現してきている。

と、ふと思い立って2007年、この記事が出たころのCAINのデータベースを見てみた。
http://cain.ulst.ac.uk/issues/violence/deaths2007draft.htm

おそらくCIRAによって2人が殺されている(この件、つい昨日、Twitter経由で何かを読んだばかりだ……ああ、これだ。Belfast Mediaの記事。この事件の犯人と思われる人物がまた傷害事件を、と)。「歴史」は終わりなどしない。



「反英闘争」としての美化の一方であまり語られることのなかったアイルランドでの教会の権力の大きさについては、この本が非常に詳しい。

4772004734アイルランド―社会と文化1922~85年
テレンス・ブラウン 大島 豊
国文社 2000-05

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※この記事は

2012年05月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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