「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年04月30日

真実を語ること、真実が語られることを邪魔しないこと(アイルランド)

1つ前のエントリで、アイルランド国営放送のドキュメンタリー番組、"An Tost Fada - The Long Silence" を見た。その関連でいくつか、メモ。

まず、番組の制作にかかわったEoghan Harrisによる文章が、22日、アイリッシュ・インディペンデントの日曜版、サンデー・インディペンデントに掲載されている。

Eoghan Harris: How Haughey hinterland was rebuffed by O'Reilly regime
Sunday April 22 2012
http://www.independent.ie/opinion/columnists/eoghan-harris/eoghan-harris-how-haughey-hinterland-was-rebuffed-by-oreilly-regime-3088173.html

The Long Silenceの放映後、カトリックのコミュニティからは、ソールターさんを迎え入れたクローリー家・コリンズ家と同じような、あたたかな反応が得られた、という報告。特に、番組内で語っていた2人のプロテスタント(ジョージ・ソールターさんと、100歳のリチャード・ドレイパーさん)には、コークやスキベレーンの人々から同情の気持ちがどっと寄せられている、と。これは、相変わらず「プロテスタントはダメだ」と言いたがる人々や、口先だけのリパブリカン(「おい、プロテスタントの人たちの気持ちも考えろ」と言いつつ、真相を語れば両派の間に軋轢が生じる、と主張している連中)とはまったく逆をいくものだ、と。そして:
... I had more trust in the people of Ireland. For nearly 40 years I have been talking to west Cork Catholics and Protestants about the suppressed sectarian side of the War of Independence. All feared to go public. But I became convinced that both sides desperately craved the truth: the Protestants to tell it, the Roman Catholics to hear it.


ハリスの記事から、The Long Silenceに出てきたお二人についての言及の部分を。ここは「セクタリアニズム」の根の深さを示してもいる。
But it was the sectarian side of the War of Independence that kept cropping up in conversations with local Protestants and Catholics. It must be 20 years since Richard Draper first told me about the "conversion" conversation at the local creamery in April 1922. But he only felt free to talk about it in An Tost Fada in advanced old age.

Richard has always wanted to put his memories on the record. But he feared reprisals, feared making trouble, feared the sheer silence itself. Until recently his fears were well founded.

George Salter's story about sectarian jibes of a few pub bigots happened only a few years ago. Salter got the best of the exchange because he had good Irish and the courage to confront the bully boys. But many a Protestant had to walk away from similar jibes with the head down.

Even today there are fragments of the Haughey hinterland festering in Dublin business circles. We have only to recall what Sean FitzPatrick said to David McWilliams at UCD in November 2008, when it looked as if the allegedly 'Protestant' BoI or AIB would take over Anglo Irish Bank. "No f***ing Protestant is coming near us . . . None of them are ever going to look down on us again."

Seán FitzPatrickは当時、Anglo Irish Bankのトップだった人物だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Se%C3%A1n_FitzPatrick

こういう、言っちゃ悪いけど、くだらないナショナリズム(プロテスタントである英国の支配を脱したカトリック国、という間違ったプライド)は、自分を元気付けたりするために必要だったのかもしれない。しかし、この狭量さ……。

なお、ハリスのこの記事の締めにあるIMNの社長の件については:
http://twitter.com/nofrills/status/193146431572422656

それから、1つ前のエントリでZenbackによって表示されていた関連記事で、6年前の自分のエントリを久しぶりに読んだ。

2006年06月18日 アイルランド、1904年/1920年代/1940年代――「暴力」は連鎖した
http://nofrills.seesaa.net/article/24547022.html

Bloomsdayにかこつけたエントリなのだが、主要なトピックはアイルランドでの反ユダヤ主義である。

レオポルド・ブルームがいつものようにダブリンうろうろを決行していた1904年、アイルランドでは、ユダヤ人に対する迫害事件が起きていた。「リムリック・ポグロム」と呼ばれるそれは、カトリックの聖職者がアジったことをきっかけとする「そのコミュニティの多数派」の行動であった。(以下、ウィキペディアを参照してまとめた。……)

アイルランド南西の内陸の都市リムリック……には、1870年代、リトアニアから迫害を逃れてきたユダヤ人商人が暮らすようになった。1880年代にはシナゴーグ(ユダヤ教寺院)と墓地が作られた。が、ここでもまた、ユダヤ人たちは差別と憎悪に直面する。1884年のイースター・サンデイには襲撃や抗議行動が発生し、女性がひとり負傷。1892年には2家族が殴打された。そして1904年、年若いカトリックの司祭が「キリストを拒絶し、暴利をむさぼるユダヤ人に懲罰を」などと教会で説教した。「カトリックたる者、ユダヤ人と関わってはならない。」

こうして「ユダヤ人の店では買わない」という不買運動が始まった。(別の説明では、「Buy Irishのキャンペーンだった」とも。)この不買運動は2年間続いた。リムリックのプロテスタントたちはユダヤ人をサポートしたが、結局、リムリックのユダヤ人たちは街にいられなくなった。

激しくアジった「過激な宗教指導者」は、教会によって配属替え(島流し)となった。ユダヤ人たちが脱出した先の港町コーク(アメリカへの船が出る)では、人々は彼らを避難民として受け入れた。しかしリムリックのユダヤ人コミュニティが、「憎悪」によって破壊され取り除かれたことに変わりはない。……

迫害される側のアイルランドのカトリックが、ユダヤ人を迫害した。その「迫害」の規模がどうであれ、これは「アイリッシュ・ナショナリズム」を美化するときには「例外」としたい歴史上の事実だろう。しかしこの「ポグロム」の後も、アイルランドの(カトリックによる)「ユダヤ人迫害」は終わらない。黒シャツならぬ青シャツ隊は、同じカトリックであるフランコ独裁政権(スペイン)を強く支持し、「ユダヤ人排斥」を唱えた。(Wikipedia、アイルランドにおけるユダヤ人の歴史も参照。)

このエントリはこのあと、「英国人に蹂躙されたアイルランド人はユダヤ人を差別し、そのユダヤ人は現在、パレスチナでひどいことをしている」という方向にいく。このエントリを書いて数週間後には、レバノン南部に対するイスラエル軍の攻撃が始まる(そしてヒズボラが大勝利な状態になる)。

ところでハリスのSindoの記事にNe Temere decreeのことが出てきた。1911年のカトリック教会令で、カトリックと非カトリックの者が結婚した場合、間に生まれた子供はカトリックとして育てるべし、というものだ。ウィキペディア、あんまりよくないけど。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ne_Temere

ハリスは、1911年にこれが発されてから(←ここ、事実関係私には不明。Ne Temare decreeは1908年のはず)独立戦争までの間に、プロテスタントの3分の1(107,000人)がアイルランドをあとにした、と書いている。

実は見るところを見ればまたぞろ、この数値をめぐっててんやわんやの大騒ぎになっているのだが、そういうのは「ちょうデジャヴー」と茶化してでもいないとやっていられない。(むろん、私は例の件のことを言っている。具体的に何の件なのか書くと、また一方的な決め付けにさらされ、非常にめんどくさいことになるので書かないが。)(そうやって、大筋では意見が一致しているはずのサークルの外の者が「言及するとめんどくさいので言及しない」ような状況を作っているのは、何の利益にもならんのよ。自分たちが、100パーセント自分たちの考えと一致する「考え」しか存在しないという山の上のお花畑に永住したいというなら別だけど。)

で、このNe Temere decreeに関連して、「プロテスタントのボイコット」が生じたことがある。そんなに大昔じゃない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fethard-on-Sea_boycott

1957年、アイルランド南東部の端、ウェクスフォード州のFethard-on-Seaでのことだ。このエリア出身のSeanとSheilaは、ロンドンのハマースミスにあるカトリックの教会で結婚した。これが……ウィキペディアの記述がまったくダメダメで、これだけを読んでも何もわからないのだが(事典として役に立たない)、ソースの記事を見ると、Sheilaはプロテスタント(チャーチ・オヴ・アイルランド)だった。そこで教会は彼女に対し、「子供はカトリックとして育てるように」と言った。彼女はこれを拒否し、娘たちを連れてこの街を離れた。教会はこの街のプロテスタントに対するボイコットを呼びかけた。

Parish priest Fr. Stafford told Sheila Cloney she had to raise her children as Catholics. Sheila refused, leading to her leaving the town with her daughters. The parish priest organised a boycott of the local Protestant population which was endorsed by Bishop Michael Brown.

この教会主導のボイコットについては、エイモン・デヴァレラも非難していたという。

ウィキペディアの記述を見る限り、一家は結局オークニー諸島に暮らしたようだが(←別の資料を見たらウィキペディアの記述がタコすぎることが判明した。シーラは子供を連れてNI経由でオークニー諸島に脱出、夫のショーンがオークニーに行き説得、最終的にはアイルランドに戻り、子供たちは自宅で教育したとのこと)、1998年、夫のショーンと、騒動後に生まれた娘のメアリが亡くなる。シーラ本人も2009年に83歳で他界した。
http://www.newrossstandard.ie/news/fethard-mourns-passing-of-sheila-cloney-aged-83-1803171.html

ショーンとシーラと、街の「プロテスタントに対するボイコット」は、1999年にA Love Dividedというタイトルで映画化されている。(夫のショーン役が、またあなたですか……という俳優さんだ。)
http://www.imdb.com/title/tt0198668/



ずっと前、頭の中が「何はともあれ階級闘争」な人と話をしたことがある。アイルランドというと「なんとなく」のイメージしかないという先方は、「虐げられたカトリックは労働者階級、プロテスタントはみなブルジョワ」と思い込んでいた(その上で、大筋のところ、ミドルクラスのプロテスタントがひどい目にあうのは別に構わない、という考えである。ここではその点は本題とは関係ないのですっとばす)。実際には、そのような社会階層の区分は宗派の別とは一致しておらず、「ワーキング・クラスのプロテスタント」、「ミドル・クラスのカトリック」という存在は無視できない。しかし先入観があると、そういったところから説明されないとわからない。あるいは、説明されても納得しない場合すらある。

だからこそ、「事実」を見ることは、たとえ断片であっても見ようとすることは、重要なのだと思う。

北アイルランド紛争についても、「カトリックはナショナリスト」、「プロテスタントはユニオニスト」という大雑把な区分ですべてが語られすぎるきらいがある。実際にはプロテスタントでナショナリストの活動家だった人もいるし(武装組織ではロニー・バンティングなど、非武装主義の政治家ではジョナサン・スティーヴンソン、ブラディ・サンデー事件のときのデモ主催者でSDLPのアイヴァン・クーパーなど)、そもそもアイリッシュ・ナショナリズムはプロテスタントが興した運動だ(ウルフ・トーン)。

英語でニュースを見てると気になるのは、英国やアイルランドのメディアは別として、グローバルなメディアが、今なお細々と続く北アイルランドのボム闘争などについて、いまだに「カトリック武装勢力」というような言い方をしていることだ。



すげーっすな、と思ったのはこれ。


※この記事は

2012年04月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 18:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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