kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年11月03日

80年代の「ケン・リヴィングストン暗殺計画」byロイヤリスト

1つ前の記事で説明した、北アイルランドのロイヤリストの殺し屋、マイケル・ストーンですが:
http://nofrills.seesaa.net/article/26613641.html

1つ前の記事の末尾の「衝撃の告白」の内容がこれ。「ケン・リヴィングストン暗殺計画」。

ケン・リヴィングストンとは誰かなどについては下のほうに書くんで、とりあえず、「衝撃の告白」の内容を。(ガーディアンThis is Hertfordshireの記事からまとめたものです。)
「あんなにやりやすい人間も珍しい。最初の予備調査でロンドンに入ったときに、地下鉄でケン・リヴィングストンを尾行したのだが、警備をつけている気配はまったくなかった。肩から書類カバンをかけて、ひとりで行動していた。地下鉄の階段でカタをつけられそうだな、と思った。」

ロイヤリスト組織の幹部らの指示で、ストーンは、ロイヤリスト系の人物が経営するイングランド北部、スカボロのホテルのバーテンとして潜伏していた。計画の秘密は厳守された。そしてストーンは再びロンドンを訪れ、今度は「下見」を行なう。

「私はジョギングしながら、ウエストミンスター駅までリヴィングストンをつけていった。リヴィングストンは歩くのが早いので、それで楽にいった。そしてプランとしては、階段の降り口にさしかかったところで追いついて、後頭部に1発撃ち込んで、それから念のために胴体に2発撃ちこむ、ということに決めた。そうすれば彼は頭から倒れこむだろう。こっちは踵を返して、ウエストミンスター駅からエンバンクメントの方に去る。そして途中で銃を川に捨てる。」

ストーンは組織から9ミリのベレッタを渡される。この銃ならばジャージのポケットに入るからだ。


地図つけときましょう。右下の「★ GLC議事堂」というのがケン・リヴィンストンの当時の職場。
lstone-map.png

計画では、暗殺を実行したあと、ストーンはロンドン市内のロイヤリストの隠れ家にしばらく身を潜め、それからスコットランドに移動し、グラスゴウでレンジャーズの試合を観戦しに来た北アイルランドのレンジャーズ・サポーターと一緒になって北アイルランドに戻ることになっていた。

グラスゴウ・レンジャーズとロイヤリストの関係については過去記事参照。
http://nofrills.seesaa.net/article/22305830.html (2006年05月18日)
http://ch00917.kitaguni.tv/e178184.html (←旧ブログ、2005年08月25日)

しかし計画実行の数日前、ストーンは作戦に障害が発生したことを知り、ベルファストに電話をかけた。

「それでどうにもできなくなった。計画実行まで3日というときだったが、突然すべてが微妙な状況になった。後から知ったのだが、もしあのときに実行していたら、私は警察の特殊部隊にやられていたかもしれない。」

ケン・リヴィングストンは「著名である上にやるだけの価値はある」ターゲットであり、計画を実行できなかったことは残念でならないという気持ちで、ストーンはベルファストに戻った。


ケン・リヴィングストンは、現在はロンドン市長です(2001年〜)。この「ロンドン市長」というのは、2001年に改編の上復活した「ロンドン市」という行政単位のトップ。

ちょっと長くなるけれども説明がないとわかりづらいので、説明しておきます。

1965年から86年まで、ロンドンの行政は、The Greater London Council (GLC) が行なっていました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Greater_London_Council

GLCの議事堂が、現在「ロンドン水族館」になっている建物、つまりウエストミンスターの国会議事堂とテムズをはさんで向かい合っている建物です。

ケン・リヴィングストンは、1981年からこのGLCの議長をつとめていました。当時、英国政府は保守党、というよりマーガレット・サッチャーの超タカ派政権で、リヴィングストンは労働党。んで、この「喧嘩上等」のGLC番長・・・議長は、GLCの建物に、日々悪化する一方の失業率の数字を、国会議事堂からよく見えるように掲示したりしていた。このころのあだ名がRed Ken(赤いケン)。

で、サッチャーら保守党はこれがほんとにウザくてたまらなくて(より正確には、中央政府の方針と相容れない「社会主義」的なGLCというのに手を焼いて)、1985年に「地方行政法」というのを国会でかろうじて可決成立させて、GLCを廃止してしまった。(東京都で考えると、都議会と都庁を廃止して、地方行政は各区と市だけで行なうことにした、というような感じかと思います。)
http://ch00917.kitaguni.tv/e215174.html

ブレア政権(1997年〜)で地方行政法が改正されて、ロンドンの自治体がGLA (Greater London Authority)として「復活」したとき、公選の市長をそのGLAのトップとすることになったのですが、2001年に市長選が行なわれたときに、労働党がケン・リヴィンストン以外の人を公認候補に立てたため、リヴィングストンは労働党を離党して無所属で立候補し、80年代の楽しい武勇伝の記憶も生々しい人々や若い世代で「ブレアの改革」に幻滅していた人たちの支持を獲得して、市長に選ばれました。2004年に再選されているので、現在2期目です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ken_Livingstone

で、このケン・リヴィングストンがGLC時代にやったことで、サッチャーを怒らせたことがもう1つあるんですが、それが北アイルランド関係。

1981年3月、サッチャー政権の「連中は崇高な目的を持った政治犯ではない、ただの犯罪者です」という扱いに抗議し続けてきた北アイルランドのリパブリカンの「政治犯」たちが、刑務所内でハンストを開始した。それから10月までに合計で10人のリパブリカン政治犯が、ハンストの結果、餓死した。
http://nofrills.seesaa.net/article/24632621.html

このときサッチャーは「テロには屈しません」との姿勢で、「あの人たちは勝手に断食しているのです」、「自分たちの大義が正しいものではないから、あのようなカードを切っているのです」というようなことを言って、彼らに「政治犯」としての待遇(囚人服でなく私服を着ること、囚人同士が交流できること、など)を与えることを拒否した。ひとり、またひとりと死んでいっても拒否した。(IRAがハンスト終結を宣言したのちに、服装など一部の決まりが緩められ、のちには「刑務所内で服役囚が自治」ということも実現された。後に墓地での手榴弾&銃での襲撃で逮捕され有罪となったマイケル・ストーンが獄中で絵を描いたりできたのも、このためである。)

労働党が、元から北アイルランドのナショナリスト/リパブリカンに同情的だったのかどうかはかなり微妙なところだが、トニー・ブレアもオクスフォードでの大学時代はアイルランドのリパブリカンの機関紙の購読をという運動をしていたし、1971年以降の北アイルランドはとにもかくにも第一に「人権問題」で、労働党はそれを問題視していた。また、少なくとも1979年以降(つまりサッチャー政権以降)は「反保守党」というのを背景として「北アイルランドのカトリックの人権」にいっそう注目していた。

そして1981年のハンストのあまりの惨状がIRAのメンバーや支持者を増やすという皮肉な結果を生んだあとの1982年12月、ケン・リヴィングストンGLC議長は、シン・フェインのジェリー・アダムズらを公式にロンドンに招待した。

当時はシン・フェインの彼らは英国政府によって「テロリスト」と認定されていて、ジェリー・アダムズらはブリテン島に入ることができなかった。なのでリヴィングストンが北アイルランドを訪問した。

このように、リヴィングストンは堂々と、「アイリッシュ・ナショナリズム」への支持を表明していた。だからロイヤリストにとって彼は「著名である上にやるだけの価値はある」ターゲットだった。それだけではなく、「正当な(legitimate)」ターゲットだった。

"Livingstone was the enemy," Stone told the Standard. "He was giving support to people we were at war with and that made him a legitimate target."

「リヴィングストンは敵だった。私たちと戦争状態にある相手を支持しており、そのことで彼は正当なターゲットとなっていた。」

-- from This is Hertfordshire article

あと、ケン・リヴィングストンで有名なのが「地下鉄通勤」。この人、80年代からずっと地下鉄通勤で、反リヴィングストンの人たちもネタにしているくらい。
http://ch.kitaguni.tv/u/917/todays_news_from_uk/0000241081.html



さて、実は「ケン・リヴィングストン暗殺計画」は、1つ前の記事で紹介したマイケル・ストーンの手記に少しだけ書かれている。ただし自分がその実行を命じられたことは書かれていない。ただ「M」という人物がその計画を練った、と書かれているだけだ。
None Shall Divide UsNone Shall Divide Us
Michael Stone


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pp.248-249から
... Ken Livingstonwas also a Loyalist target, according to M. He was a hate figure because he was over-sympathetic to Republicans. Loygalists dubbed him Green Ken, rather than Red Ken, because of his overtly nationalistic politics and opinions. A volunteer was sent to London to meet up with two members of the National Front. They weren't the 'bovver boots' and shaved-head brigade but respectable businessmen. They were organised by the Red Hand (Defenders) to provide transport and accommodation for the volunteer. Livingstone was a political target and would be executed as he left his place of work. ...

The volunteer worked alone. He dressed as a jogger to carry out the assassination. He looked at the GLC building, .... There was no security, and every evening at five-thirty Livingstone would leave his office and walk the short distance to the Underground station. The volunteer followed him on the train, got off when Ken did and tailed him to his home. He was surprised that Livingstone lived in a modest house. ... Livingstone wasn't assassinated because Loyalists called a halt on the hit. The Inner Council had too much time to think about it and decided a Loyalist group killing a British politician was a no-no.

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http://www.amazon.co.uk/None-Shall-Divide-Michael-Stone/dp/1904034519

ロンドンでの隠れ家提供者はNFの「立派なビジネスマン」(現場で暴れてる連中ではなく、カネを出してる連中でしょうね)、UDAのInner Councilが考える時間をかけすぎたので暗殺計画は中止された・・・今回の「衝撃の告白」と合わせて読むと、興味深いですな。

なお、この計画は1984年(1955年生まれのストーンが29歳のとき)のものですが、2003年に出た手記では「自分とは別のUDA/UFF義勇兵が」というように書いているのを、今になって「自分がやろうとした」と告白したのは、かつての仲間というか同志というかUDAの人間が、このことでストーンをゆすろうとしてきたためだそうです。

※この記事は

2006年11月03日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 01:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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