「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年04月23日

エジプト、「革命」前の2005年から切り込んだ報道をしてきた「独立メディア」、Daily News Egyptが突然廃刊に。

おそらく、今日は日本語圏では、エジプトからのニュースとしてイスラエル向け天然ガスの輸出契約打ち切りということが報じられてはいるだろう。これはホスニ・ムバラクの不正蓄財を可能にした要因のひとつと言われている(「中抜き」していた)。それに、「アラブ諸国で最初にイスラエルと和平を結んだこと」の象徴ともいえる天然ガスの供給をやめれば、「ムバラクが退陣しても本当に何も変わっていない」という心理に大きく影響を与えることができるし、国民に「してやったり」感も与えられるだろう。

そんなこんなでこういう大きなニュースがある日ではあるのだが、もうひとつ、意味合い的にはこれに負けないほど大きなニュースが、唐突に飛び込んできた。Daily News Egyptが廃刊されたという。


Daily News Egypt (DNE) はエジプトの英語新聞。「ムバラク大統領こそ我々の指導者」的な結論を言うことを目的とせず、独立した編集権を持って「報道」という仕事をしてきた媒体だ。昨年、タハリール広場が世界の注目を集めたときに、この広場から毎日英語でツイートして状況を伝えてくれていた人たちの何人かは、この新聞のジャーナリストだった。紙面の記事(ウェブに掲載される)もよくURLが回ってきていた。私もこの新聞の記者たちが流すリアルタイムの情報や、この新聞の記事のURLを含むツイートは、ずいぶんたくさん日本語にしてリレーしたと思う。はてなブックマークにもけっこう放り込んでいる(→はてブ全体での検索結果)。

2005年にスタートしたこの新聞は、2011年1月のタハリール広場へとつながっていく情報の流れと共有の場を作った媒体のひとつだが(2000年代後半はエジプトでは労働運動などが非常に活発になり、08年の選挙のぐだぐださで人々の怒りはえらいことになっていた)、最近で最大の仕事は、「革命」後も一般の市民が軍事法廷で裁かれているというひどい事態(SCAFの口約束)を追及したことだ。

現状、DNEの閉鎖の理由ははっきり語られていない。記者たち(編集部)もいきなり社主から「印刷するの、あさっての号で終わりね」と通告されたという感じだ。投資家の判断云々ということも言われているが、それにしたってウェブサイトがそっこーでオフラインにされていることの理由にはならない(そこまでカネが逼迫する状況?)。うむー。

詳細は下記で。

エジプト、ムバラク政権下から唯一の「自由」な新聞として活動してきたDNEが突然の廃刊
http://matome.naver.jp/odai/2133514591511757201

なお、下記「NAVERまとめ」は、Chirpstoryにアーカイヴした英語のツイート(大量)から選んで編集したものである。事態に興味がおありの方は、一次資料であるChirpstoryのアーカイヴをご参照いただきたい。



※この記事は

2012年04月23日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 14:40 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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