「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2012年04月17日

「東北博」のウェブサイトの「誤訳」の件について「まとめ」、そして思う。

「読めない文字で書かれたページが、何について書かれているのかがわかるようにする」程度のものを、《翻訳》と位置付けることができるのか、ということは、ずーっと以前にどこかで書いたような気がするので詳細は繰り返さない。

例えば私はアラビア語を読むことができない。しかし毎日、Twitterの画面にはアラビア語のツイートがたくさんやってくる(アラビア語圏の人たちのツイートやRTである)。それらについて、何らかの必要がある場合、私は「Google翻訳」でアラビア語→英語にして「何について書かれているのか」を把握する。よくあるのは、シリアの人から、住宅街から煙が上がってくる写真がツイートされる、というような状況だ。ハッシュタグで説明してくれてることもあるが、そうでない場合には、ツイート本文を「Google翻訳」にかけて、どの都市・どの地域でいつ撮影された写真であるかを確認する。そういう感じだ。(それ以上のことは私は「Google翻訳」には求めていない。)

同じようなことは、私が文字を認識しないすべての言語について行われうる。ロシア語しかり、ギリシャ語しかり、アルメニア語しかり、ペルシャ語しかり、ヘブライ語しかり……である。

そして、「Google翻訳」を使えば、少なくとも何についての文章なのかがわかるようになったのは、パソコンもネットもなかった時代から見れば夢のような、「翻訳こんにゃく」級のことである。

イランのニュースサイトに掲示されている写真のキャプションは、「撃墜した(タイプの)無人偵察機」と言っているのか、「イメージ写真(※本文とは関係ありません)」なのか、といったことが、ペルシャ語話者に相談しなくてもわかる、ということは、非常に大きな「進歩」だ。私はそれを可能にしたテクノロジーの進展に感嘆しているし、感謝もしている。

しかし、こういった「読めない言語を読める化する」ような作業を「翻訳」と呼ぶとき、私はどうにももやもやする。違う違う、「翻訳」ってのは、そんなんじゃない。「東京」をTokyoとするような作業、「東京の街路地図」をTokyo street mapにするような作業は「翻訳」じゃない。「翻訳」という日本語の持つ《意味》に合ってない。英語でのtranslateという語の感覚ではどうなのか、私には皮膚感覚がないからイマイチわからないが。

そんなことをまた考えているのは、例の「東北博」での機械翻訳による「誤訳(と呼べる性質のものではないが)」騒動が発端だ。

何があったのかについて報道されていること(1ページ目)と、翻訳者からの声の数々(ここまでで4ページ半)、および(5ページ目で)同じ翻訳エンジンでアウトプットされていると思われる別の「機械翻訳」の例の検討、そして日本国政府の観光庁(国土交通省外局)がいかに「英語」を粗末に扱っているか(というか、ナメてかかっているか)を、"Japan. Thank You." なる謎のキャッチフレーズ(何そのピリオドは)から検討した。

【東北観光博機械翻訳騒動】「啄木」は「きつつき」、では「カマクラ」は…えっ、「蚊枕」?http://matome.naver.jp/odai/2133462929975556101
※「続きを読む」の下に貼り込みます。

「石川啄木」をIshikawa Woodpeckerと出力するようなのは「翻訳」じゃないし、「カマクラ」をmosquito pillowと出力するようなのも「翻訳」じゃない。何もわかっていないからこそ可能な言語処理の結果だ。

機械に「わかる」ことは期待できないのだが、だからこそ「石川啄木」は人名(固有名詞)で、「カマクラ」は「かまくら」の表記ゆれである、ということを機械にインプットしておかねば、そもそも作業にならない。

今回の「東北博」の事例では、それすら為されていないというお粗末っぷりだったのだが、それ以外に、「このイベントはこんな背景があってこういう歴史で、こういう内容ですよ」という「説明文」も、どうせ機械翻訳ではぐだぐだになっているに決まっている。

そして「機械」によるそういう作業を「翻訳」と呼んでよいのかどうか、またもや考え込んでいる。

※この記事は

2012年04月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:50 | TrackBack(0) | 言語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼