「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年04月05日

The Political Studies Associationの年次コンファレンス@ベルファスト

4月3日から5日の日程で、The Political Studies Associationの年次コンファレンスが行われている。今年の会場は「欧州で最もボムられたホテル」こと、ベルファストのEuropa Hotelだ。
http://www.psa.ac.uk/2012/

ベルファストは、「紛争」からの「復興」の最終段階に入っている。今週オープンした「タイタニック・エクスペリエンス」は、その「復興」がひとつの節目に達したことを内外に示すものだ。今年2012年は「観光都市ベルファスト」のキャンペーンの年でもある(来年はCity of Cultureでデリー)。

で、この政治学者さんたちの集まりが今年はベルファストでの開催ということで、「北アイルランド紛争の紛争解決・紛争転換」をテーマにしたプログラムが、かなりすごい。こんな学者さんたちの集まりに、誰がUDAのジャッキー・マクドナルド親分のパネルとしての登壇を予想するだろう。

というわけで、自分で参照するためになんだけど、一覧できるようにしてある(単なるアーカイヴ)。いくつも同時開催されているプログラムの多元同時中継みたいになっていて読みづらいとは思う。
http://chirpstory.com/li/5960

Chirpstoryより少し絞り込んだものが下記のNAVERまとめ:
http://matome.naver.jp/odai/2133357019819130901
※「続きを読む」の下に埋め込む。

4日は夜にベルファストのシティ・ホールでディナーがあり、ゲスト・スピーカーとしてマーティン・マクギネスが25分弱のスピーチをした。これが、@alaninbelfastさん(Alan Mebanさん、北アイルランドの政治系ブロガーのひとり)によってaudiobooにアップされている。音質が非常にクリアで聞き取りやすいので(北アイルランドのアクセントだけど)、関心のある方はぜひ。
http://audioboo.fm/boos/742334-deputy-first-minister-martin-mcguinness-addressing-psa-conference


あ、MMcのスピーチ、エンベッドできるのでしておきます。聞きながら、「NAVERまとめ」を読むなり何なり……


あと、ジャッキー・マクドナルド親分さんが参加したパネル、「ロイヤリズムの将来」の音声ファイルも、アランさんのAudiobooにアップされてます。
http://audioboo.fm/alaninbelfast

※この記事は

2012年04月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼