「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年04月05日

【訃報】ジム・マーシャル(マーシャル・アンプを作った人)

ふとTwitterを見たら、Trending TopicsのところにRIP Jim Marshallと出ていた。「えー」と言いながらクリックすると、Top imagesのしょっぱながあれだったのでお茶をふいた。

"All the way up, all the way up, you know what we do. These go to eleven."

"The Father of the Loud". この人がいなかったら「ラウド」なる音は存在していなかった。JimMarshall.co.ukでは「50年にわたって弊社を率いてきた伝説的存在」の他界を告知し、その人生を振り返る部分でこの呼び名を使っている。

いわく、「ジムが『ラウドの父』として、『ロックのサウンド』を作った人物として、歴史にその名を刻まれることになった過程は、まさにゼロからのサクセス・ストーリー (rags-to-riches) である。結核菌が骨に感染するという病気に苦しめられた彼は、現在の私たちがこれがロックのギターと思っているものがこの世に出るために必要だった道具を作り出した4人の先駆者たち――それぞれ既に鬼籍入りしているレオ・フェンダー、レス・ポール、セス・ラヴァーと、ジム――のひとりとなった。」

特にロックの音楽に興味のない人でも、このアンプについているトレードマーク(ロゴ)には見覚えがあるのではないかと思う。そのくらいの「定番」だ。写真はAllert Aaldersさんの撮影、2006年のドイツでのダイナソーJrのステージ。

Dinosaur jr.
*Photo by Allert Aalders (CC BY-NC 2.0)

ファンが作ったCM(風の映像):


ウィキペディアを参照すると、ジム・マーシャルは1923年にロンドン西部アクトンに生まれた。家族はボクサーや演芸場の芸人が多かったそうで、つまり階級としては表舞台に出てくることのない階級(まさにrags)の出身だ。幼少時に病気のため長く入院生活を送り、正規の教育は殆ど受けていない。第二次大戦でも健康問題で兵役には行かず、歌手として活動。ドラムを叩ける民間人が少なくなっていた折、ドラムも叩くようになった。収入を得るための職としては電気技師をしており、歌がドラムの音にかき消されないよう、アンプリファイアーを開発した。この時代のことを、「戦時中のことで稼ぎも少なく、車で移動するにもガソリン代がない状態だったので、自転車にリヤカーをつけて、それにドラムキットやPAセットを載せて移動していた」と回想している。

戦後、ジムは「ドラムの先生」として活動、生徒にはミッチ・ミッチェルらがいた。「週に65人に教えた」というほど好評だったこのドラム教室で溜めた資金で、彼は事業を始めることになる。1960年、まずはドラム専門の楽器店としてスタートした西ロンドンの店は、ギタリストなども自然に脚を運ぶから、すぐにギターやアンプも扱うようになる(フェンダーのアンプをアメリカから輸入)。すると店に来るギターのお客さんたち(ピート・タウンゼントら)が「こんなアンプがほしい」という話をするようになる。こうして、技師としての知識と経験あるジムと、彼がスカウトしてきた若い技師によって、かの有名な「マーシャル・アンプ」が開発されることになる。1962年には会社を設立、アンプはロックのミュージシャンの間で「定番」の機材となり、事業は順風満帆、1984年には「輸出品」での功績を顕彰されてOBEをうけた。

JimMarshall.co.ukのサイトにあった "rags-to-riches" という英語の成句(頭韻を踏んでいる)。芸人の家に生まれ、自身も芸人として生計を立てていたジムが腕一本で起こした事業は、「英国を代表する輸出企業」となった。

ニュースのスナップショット:



大手メディアの訃報の記事は、単に「亡くなりました」という段階の「訃報」の記事にありがちな、「会社のプレスリリースのコピペ」+「人名録(現代ではウィキペディアを含む各種オンライン・リソース)からの引き写し」の感じがするが、そのうちにもう少しブラッシュアップされ、しばらくしたらまともな「オビチュアリー(故人の人生を振り返る記事)」が出る。

YouTubeで marshall amps, marshall stacks などで探すといろいろ見つかる。下記はゲイリー・ムーア(RIP)のデモ映像。



個人的には気分はこっち。





こうやって見出すと止まらないよ。合掌



http://matome.naver.jp/odai/2133363801422454601



※この記事は

2012年04月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼