「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年03月26日

「国へ帰れ、このテロリストめ」という暴力的な言葉と、物理的な暴力(米国)

32歳のシャイマ・アルアワディさんは、米西海岸、カリフォルニア州サンディエゴ郡の少し内陸に入ったところにあるエルカホウン (El Cajon) という街に、夫と5人の子供たちと一緒に暮らしている。夫は以前、近所に住んでいる男性とともに米軍の請け負い業者として、米軍兵士に「中東の文化と生活」を教える仕事をしている。シャイマさんたちは1990年代半ばにイラクから米国に移り住み、子供の多くは米国で生まれていることになるが、一家がこの家に引っ越してきたのは最近のことだった

1週間ほど前、この家に「国へ帰れ、このテロリストめ」という内容の文言を書いた紙を何者かが置いていっていた。シャイマさんは「子供のいたずらでしょう」と受け流した。しかし先週水曜、何者かが家に侵入し、居間にいたシャイマさんは、頭を金属の工具で何度も殴られた。

その日、家にいた17歳の娘のファティマさんが2階から降りてきたときには、侵入者は姿を消していた。窓が割られていた。シャイマさんは血の海の中に倒れていた。頭の脇に、「国へ帰れ、このテロリストめ」と書かれた紙が置かれていた。

シャイマさんは病院に搬送されたが生命維持装置をつけるしかなかった。家族は土曜日、生命維持装置のスイッチを切るというつらい決断をした。

警察は「ヘイト・クライム」の可能性を含め、捜査している。

……というニュースについて、英語記事をいくつか、1ページで閲覧できる形で「まとめ」た。
http://matome.naver.jp/odai/2133270492783185301
※この下に貼りこみますが、環境によっては↑のリンクをクリックして見ていただいた方が読みやすいです。

2ページ目には、「差別」、「ヘイト・クライム」としてのTwitterでの反響(特に、2月にトレイヴォン・マーティンという17歳の黒人の男の子がフロリダで「自警団」に射殺された事件との、人々の連想というかたちでの関連)を「まとめ」てある。

その2ページ目にリンクを貼ってあるが、米国生まれの南アジア系の医師 @hrana さんによる「差別の実態」の連続ツイートを、「NAVERまとめ」とは別にchirpstoryで一覧できるようにしてある。
http://chirpstory.com/li/5595

彼の連続ツイートを動機付けたのは、何より、「マイノリティの一員の自分が、威力で脅されるという経験をしながら成功し、知的な職業について高収入を得ているということは、ひとりの母親がああいうふうに殺されるのを防ぐ役には立たなかった」という憤りだ。




@hrana さんの連続ツイートは、彼の年齢がわからないのでいつごろの話なのかははっきりしないが、そんなに昔のことを言っているわけではない。お写真を見るに、現在40歳くらいだろう。だとすれば「11歳のときにゲートつきのコミュニティに越した」とあるのは1980年代、マイケル・ジャクソンが「ポップの帝王」としてメガヒットを飛ばしていた時代だ。ポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダーが『エボニー&アイボリー』で「白と黒でハーモニー」ってデュエットしたのが1982年。

当時私は子供で、テレビの音楽番組でしか「外国」(つまり「アメリカとイギリス」)のことは知らなかったが、少なくとも「人種差別」は「昔」のこと、「歴史上のこと」として扱われていた。つまり、例えばサミー・デイヴィス・ジュニアが「人種」を理由に興行に苦労したりした時代は過去のもの、という空気だった。音楽番組には黒人のミュージシャンが何人もいた(ライオネル・リッチーとか、ホール&オーツのオーツとか……)。でも、「アジア人」は、うちらのような東アジア人も、インドなどの南アジアの人も、さらにペルシャ、アラブのような西アジアの人も、私が見ていたテレビの中の「外国」(つまりアメリカとかイギリス)では、まず出てこなかったと思う。

閑話休題。

イラクから移り住んだ女性が自宅に侵入した人物に撲殺された事件は、「人種差別 racism」であると同時に「イスラム嫌悪・差別 islamophobia」である。(また、現在、イスラモフォビアという現象で最も象徴的な扱いを受けているのが女性のヒジャブで、そこから「ヒジャブを身につけているからといって……」という言説が生じている。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Islamophobia



※この記事は

2012年03月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 11:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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