「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年10月23日

クレア・ショート、事実上の離党

日本でも「イラク戦争反対」のイメージが強くあると思われるクレア・ショート元国際開発大臣が、労働党議員としての立場を捨てた。具体的には、労働党のwhip(院内幹事)を辞めた。"I will therefore sit in the House of Commons as an independent Labour MP."とのことで、党を離れることはしないが(「私は骨の髄からの社会民主主義者ですので」というようなことを書いている)、労働党の党議拘束は受けないようになる。議員としては、事実上の「離党」をしたと言えるだろう。

Clare Short resigns as Labour MP
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/6069710.stm

Short quits as Labour MP
http://www.ft.com/cms/s/3cc5a5d8-60a1-11db-a716-0000779e2340.html

Short resigns from Labour party
http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,1927586,00.html

Short faces lonely campaign
Analysis
By Brian Wheeler
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/6070884.stm

(報道ではガーディアンが最適。BBCやFTは端的な報道にはなっているが、わかりづらい。BBCのアナリシスは非常にわかりやすい。)

クレア・ショートが労働党から離れたというか、労働党が社会民主主義から離れたというか……労働党が社会民主主義から離れたというよりは、その社会民主主義そのものが変容しているという考え方もあるだろう。ただし最近の労働党は、people powerの政党ではない。(ブレアが出てきたときはpower to the peopleという古びた標語が生き生きとしていたということだが。)

ガーディアンの記事によると、クレア・ショートは政府に反対する発言を自由に行なうことを望んで労働党のwhipを辞したようだが、実際のところは党内の懲罰必要論との駆け引きの結果だろう。(いろいろな点で、田中真紀子を思い出させる。)

クレア・ショートはバーミンガムのレディウッド選挙区選出の国会議員(1983年〜)。1997年、ブレア政権発足時に国際開発大臣(Secretary of State for International Development)として入閣した。2003年、イラク戦争開戦前に「国連決議なき戦争」に反対し、開戦するなら辞任すると言明していながら、結局そのときは辞任せず(このときにロビン・クック院内総務・元外相が辞任し、その辞任の演説は名演説として高く評価されている)、同年5月に「戦後イラクの復興は国連主導」との約束をブレアが違えたとして辞任。その後はブレアに対する批判をただ言葉で展開するだけでなく、具体的な材料を出して行なってきた。
http://ch00917.kitaguni.tv/e32819.html

最近は選挙制度改革を求めて積極的に発言していた。それが労働党の党紀に触れているとして党内的に厳しい処罰を求める声が上がったようだが、ブレアら党執行部は「クレア・ショートを殉教者にしてはならない」という考えから、厳しい処罰(おそらく除名)を見送り、戒告処分とした。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/6042010.stm

彼女が求めていたのは「絶対多数のない国会(英国の場合は下院)」。これについての記述をwikipediaから引用すると:
http://en.wikipedia.org/wiki/Clare_Short
Short said she was "ashamed" of Tony Blair's government and backed proportional representation, which she hoped would be achieved through a hung parliament.


辞表から:
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/6070156.stm
It is my view that our political system is in trouble and that the exaggerated majorities in the House of Commons have led to an abject parliament and a concentration of power in Number 10 that has produced arrogant, error prone government.

このほかにも「党首選もせずに党首の座をブラウンに譲るなんてとんでもない」「そのようなかたちでブラウンを支持することなどできない」といった発言も、どこかの新聞記事で見た。確か今年の労働党の党大会の直前だ。

2006年9月、クレア・ショートは次の選挙(おそらく2009年)には労働党からは立たないということを言明している。(この人は1946年生まれで現在60歳だから、英国の政治家の引退の年齢としてはさして早いわけでもないが、議員活動から完全に引退するのかどうかは明言していない。)
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/5341690.stm

というわけで、以下は労働党をまったく支持していない新聞、デイリー・テレグラフのブログから。なんか、すごく空気が伝わるような気がするので。つまり、「対岸の火事」という感じが余計にリアル。

Clair Short's missed opportunity
http://blogs.telegraph.co.uk/politics/commonsconfidential/oct06/clareshort.htm
クレア・ショート議員が労働党を離党し、議員としての残り任期を無所属議員として【訳注:以上、原文の直訳】過ごすことを決断したことについて涙する者は、ダウニング・ストリートではほとんどいないであろう。しかし労働党の一般の支持者たちはがっかりすることだろう。

バーミンガム・レディウッド選挙区選出のショート議員は、2003年に閣僚を辞して以降、ブレア首相の外交政策とリーダーシップの取り方に対し、歯に衣を着せぬ批判をしてきた。

議員はその波乱に満ちた議員生活のなかで3度、労働党の要職を辞したことがある。湾岸戦争【訳注:1991年のと2003年の】をめぐっての2度と、テロ予防の法整備をめぐっての1度である【訳注:1988年、対IRA】。

しかし2003年に国際開発大臣を辞したことは失われた機会と解釈された。あれで労働党左派としての立場をだめにしたというのだ。

ショート議員は、同じく閣僚であった故ロビン・クック【訳注:元外相。辞任時には下院院内総務】のように(武力)紛争の前に辞するのではなく、正しいことと誤ったことの間で苦悩した。

結局彼女が閣僚を辞したのは大規模戦闘事態が終結してからであった。もしクック元外相と同じときに辞していれば、ブレア首相の権威にとっては深刻な打撃となっていたであろう。党内の造反も実際にあったものよりも大きくなり、政府が、米国主導の侵略に参加することに国会で支持を取り付けることが妨げられていたかもしれない。

歴史の過程は全然違ったものであったかもしれないし、ショート議員はイラクをめぐって自身の政治家としてのキャリアがいきなり止まってしまったことについてブレア首相を決して許していないようだ。

【ここでツッコミ的訳注:テレグラフの人が何を書こうが自由ですが、この欺瞞はひどい。1つは「米国主導の侵略に追随しただけ」という欺瞞(「イラクの大量破壊兵器の根拠」の資料を作ったのは英国)。もう1つは、「労働党内の造反がもっと多ければ戦争は始まらなかった」という欺瞞。労働党内の造反の少なさじゃなくて、保守党の態度でしょう、開戦を決めたのは。(テレグラフは保守党支持の新聞で、2003年当時は「必要な戦争」論を書いていた。当時はマイケル・ポーティロ元国防大臣やボリス・ジョンソン議員ら、保守党のフロントベンチャーもこの新聞にはさかんに書いていたはずだ。)】

ショート議員は政治家のための政治家ではないが、一般市民との関係はしっかりとしたものがある。

彼女の言葉は、スピンドクターが望むようにはものごとを語らない。また感情を出すことを恐れておらず、リスクをおかしても、タブロイドのセミヌード写真を禁止しようとしたり、英国の諜報機関が恒常的に米国高官を盗聴していたということを明らかにしようとした。これは機密事項を暴露しないという枢密院誓約に違反しているのではないかとも割れたが、彼女は平気でそれをおこなった。

ショート議員は最初に結婚したときはまだ若く、18歳で妊娠した。夫と話をしたうえでとても育てることはできないと結論をくだして養子に出したが、その31年後にそのときの子供を公に紹介して、ウエストミンスターを驚かせた。

今回ショート議員は労働党を去ったわけだが、これもまた党指導部に対する全面攻撃をともなっている。「私たちの政治的システムは大変なことになっています。下院の過度な(exaggerated)過半数が、見るも無残な国会と、首相官邸への権力の集中という結果を生じさせ、そのことで、傲慢で失策の多い政府というものが生み出されているのです。」

どうしたことか、ショート議員のように意志が固く強情な女性は、労働党ではいい成果をあげられない。元北アイルランド担当大臣の故モー・モーラムもまた、ブレアと仲たがいした。彼女の政治家としてのキャリアもまた、同じような失望と幻滅の中で終わった。

しかしそれでも、ショート議員にとっては明るい話題もある。故モーラム議員の夫ジョン・ノートンと非常に親しくなったのだ。4月にノートンは「クレアとは付き合っていますよ。それを秘密にしたこともありませんが」と述べている。

最後の2パラは、「意志が固く強情な女性が成功した保守党」(<マーガレット・サッチャー)がベースにあるんだろうなあ。そうだとしたらほとんど個人崇拝に近いと思うが。。。

モーラムやショートの件は性別の問題じゃないと思うんだけど。つまり、モーラムもショートも「強情な女だから」干されたわけじゃない。モーラムは一番難しいところを無事やりのけたところで用済みになったのだし(というかあのままいたら事態は悪化していたかもしれない。DUPがモーラムのことを蛇蝎のごとく嫌っていて)、そもそも1997年にはすでに病を得ていた。ショートは党が分裂しそうなときに党の分裂を食い止めるためだけに引き止められた。(<2003年3月のこと。)

というか、男でも干されたのがいるしねぇ。ロビン・クックもそうだし、ケン・リヴィングストンやジョージ・ギャロウェイといった「昔ながらの労働党」の生き残りも。ブレアが来年の党大会のときには党首ではなくなると明言したころに、これまでブレアに金魚のフンみたいにくっついていた男の政治家たちがブラウン支持に回っていっていたのがドタバタ喜劇みたいだったけど、あれだって干されちゃかなわないからそう立ち回ったんだろうし。

テレグラフのブログの最後のほうに、ちょっと意外ないい話(?)が出てくるけど、モー・モーラムの夫のジョン・ノートン(1995年結婚)はマーチャント・バンカーだったそうですが、その仕事を失ったあとは画家で、ときどき左派系メディアに寄稿したりしているようです。
http://commentisfree.guardian.co.uk/jon_norton/profile.html
http://www.numberninethegallery.com/index_numbernine.php?artist=jonnorton&lang=en

モーラムが亡くなったあとにショートと付き合っているとかいうのは、デイリー・メイルが書いたのが最初のようです。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1764669,00.html
ちなみにモーラムはイラク戦争に激しく反対していた(そのときには政界は引退していたけれども)。ショートもそうで、デイリー・メイルは政治的に右翼の新聞(the Evening Standardと同じ会社の新聞)、「反戦議員」のこういうネタはおもしろがって書き立てる。で、それが「良識」だという顔をしている。

特にモーラムはカナビス合法化論者だったので、右翼からは「国を滅ぼそうとしているとんでもない連中の一人」と見られていたし、モーラムの言葉遣いはミドルクラスのお上品な連中には考えられないようなものだったし(チャールズ皇太子とあんまり変わらないような気もするんだけど)、そんなこんなでとにかく、デイリー・メイルにとっては彼女は「ネタ満載」の女性政治家だった。

モー・モーラムについて、詳細は:
http://ch00917.kitaguni.tv/e176730.html
1998年のグッドフライデー合意(ベルファスト合意)を実現させる上でものすごい重要な役割を担ったこの元北アイルランド担当大臣は、1997年の総選挙の数ヶ月前に脳腫瘍と診断されていた。つまりGFAのときはすでに脳腫瘍で闘病中だったのだ(が、ジェリー・アダムズに「あんた、いいかげんちゃんとやってよね。じゃないと頭突きをお見舞いするから」と言ってみたり、イアン・ペイズリーに「Fワード・オフ」と言ってみたり……)。2005年8月に55歳で他界。

※この記事は

2006年10月23日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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