「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年03月11日

3.11

今日の午後1時半ごろのBBC Newsのトップページ(英国では午前4時半ごろ):



トップニュースと、サイドバーのところにあるニュースの2件が「日本」関連だ(1件は「みなさまからの写真投稿」)。

日本時間、夜になってからだが、ガーディアン:



アイリッシュ・タイムズ:



※キャプチャはいずれも、画像内見出しクリックで記事に飛びます。

今日、ガーディアン/オブザーヴァーで「1923年の地震」について書いているのは、『Tokyo Year Zero』のデイヴィッド・ピースだ。

4163264205TOKYO YEAR ZERO
デイヴィッド ピース 酒井武志
文藝春秋 2007-10-11

by G-Tools


そのほかのメディアも含め、普段から日本で生活して取材している記者さんたちが、「あれから一年」となる津波被災地をはじめとする「現場」に入っている。

BBCでもガーディアンでも、これまでの1年間、ほんとにたゆまずに取材と執筆と記事掲載が続けられていたが、1年という節目でそれも少し変わるかもしれない。この先、この災害について「日本の外」にどれほど情報が出せるか……。

近所の区立の施設には半旗が掲げられていた。昨日は雨降りだったので外で遊べなかった子供たちが、広場にわーっと遊びに出ていた。



その時刻、防災無線を通じて何かメッセージが流されていたが、わんやわんやという反響で何も聞き取れなかった。選挙のときに「今日は投票日です」などとアナウンスされるのは聞き取れるので(女性で、プロのアナウンサーが読んでいる)、本当に何かあった場合には聞き取れるメッセージが流れてくるのだろうと思う。その防災無線を録音しようとして、音声がオフになっていた失敗動画:



先日図書館で今月分の新聞(毎日新聞)をまとめて読んでいたときに、「1年前、海外のニュースは大袈裟な話や根拠のないガセばかりだったが、その誤りの指摘をTwitterで続けていた在日外国人、ダニエル・カールさん」みたいな(ごめん、言葉悪いけど)ヨイショ記事を見て、げんなりしてしまった。別にカールさんが悪いとかいうんじゃなくむしろ逆で震災直後はカールさんのツイートにはおおいに助けられたのだが、いまだに「海外メディア」=「悪」というあの人の基本スタンスはどうかと思うし、それ以前に、1年前、「情報が少なくて困っている在日外国人のために情報を流した人」が、あたかもダニエル・カールさんだけ(&「外国人」=英語話者だけ)であるかのような書きぶりには、頭を抱えてしまった。いくら「古いメディアと新しいメディア」という文脈で考える上での一事例であるにせよ。

英語では当時最もすごかったのは、Time Out Tokyoだ。NHKなどの日本語のニュースを逐次通訳状態でツイートしていたり、「都市生活のガイドブック」の本領発揮で、細かい情報を流していたり。(当時、最も活発にTwitterで細かな情報を流してくれていた人は、契約終了でTime Outを離れ、日本からも離れてしまっている。)
http://www.timeout.jp/en/tokyo/feature/2530/tokyo-earthquake-blog

韓国語では、東方神起のファンのネットワークが、情報の流通に主体的に関わっていた。ほか、台湾の人(中国語)、ポルトガル語話者(特にブラジル)、スペイン語話者などなど、多くの人たちが「翻訳ボランティア」として、そのとき本当に必要なことを(日本で生まれ育ってれば自然に知ってることでも、引っ越してきた外国人にはわからないようなことを含め)、細かく細かく流していた。

「海外メディアは嘘ばかり」みたいなメディア批判とは別なところで、そういうネットワークがあった。ハッシュタグもあった。仙台で被災された通訳者さんも参加しておられた。

そういうことが、どうも、うまいこと記録されてないような気がする。このままでいいんだろうか。(記憶だけしててもだめ。記録しなくちゃ。個人のレベルではなく。)このままじゃ「うそばっかりの海外メディアと、情報を修正した正義のダニエル・カール」みたいな物語になってしまいかねない。

そう思いつつ迎えた1年目だった。

1年前のTwitterのログ:
http://twilog.org/nofrills/date-110311/asc

日付変わって最初のツイートは(ブログのフィードを別として)、"G" ことガイス・アブドゥル=アハドがリビア潜入取材中にカダフィ側に捕まって連行された、というとんでもないニュースだ。(彼の解放までには所属媒体の編集長が出てきたり、トルコ政府が出てきたりとおおごとになったが、最終的には彼は解放され、数ヵ月後、カダフィ政権が倒れたあとに、「私を拷問した人物」を訪ねて再度現地入りということをしている。)

そして「ううむ。あの文脈でシリアがどうのこうのという話が出てきているのが不気味。しかも見るからに根拠不明。」などということを午前1時過ぎに書いているのだが、「あの文脈」はリビアのNFZ導入論であるにせよ、「シリアがどうのこうの」が今思えば謎だ。控えておかなかったのが悔やまれる。(シリアは始まったのは #Mar15 のハッシュタグだったが、毎日新聞の和田さんに先日うかがったところによると1月末には既に動きはあったとの由。あのころ、チュニジア、エジプトに続いてイエメン、バーレーン、リビアだけでなく、アルジェリア、モロッコ、モーリタニア、ヨルダン、レバノン、オマーン、サウジアラビア、イラク……など、MENA各地で動きがあった。だから「アラブの春」なのだ。それがわかってそうにない論者もけっこういるけど。)

そのあとしばらく、リビア関連で釈然としない情勢下&介入反対論という数的には絶対的マイノリティの立場から、かなりヘヴィな内容が続いている。あとは都知事選を前にした軽口。

その瞬間のはこれ。投稿ボタンを押すまでに若干、タイムラグがある。




津波の様子は、私はブラウザでアルジャジーラで見ていたのだが、そのことについてのツイートはない。ただ、Twitterのタイムラインで、私がフォローしている人たちがニュースの画面を見て叫び声を上げている状態だったのは鮮明に覚えている。身内(東京都内)と電話で連絡を取っていたときに画面がすごくて、「ええっ、ちょっと今見て、テレビのニュースを」という言葉が出たのも覚えている。

夜になって外に出たとき、都心から郊外に伸びている幹線道路沿いを、会社勤めの服装をした大勢の人たちが、疲れきったように歩いてきた。大規模なスーパーなどが閉店していて明かりが消えていて、看板も明かりがなくて、いつもより暗かった。



地震後、@ourmaninabiko が思い立って始めた #Quakebook の企画に、私は(その前に彼とオンラインで知り合っていたことが影響して)最初に声をかけられたひとりだ。

その原稿:
http://nofrills.seesaa.net/article/191378668.html

そのセルフ翻訳(英→日):
http://nofrills.seesaa.net/article/191701785.html

うちの冷蔵庫にはまだ、あの春菊の袋がマグネットで貼ってある。




※この記事は

2012年03月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(1) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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被災地に咲いた『韓国語』という希望の花 「韓国語を学ぶ日は、嫌なこと全て忘れることができ、幸せだ」
Excerpt: 1 :ポキール星人Zφ ★:2012/05/02(水) 18:16:04.83 0「つらいからといってへこんでばかりいるわけにはいかないでしょう。立ち上がらなければなりませんね。韓国語の勉強は、我々皆..
Weblog: 【豆β】痛いニュース+
Tracked: 2012-05-04 00:01

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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