「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2012年03月04日

ホムスで何が起きているのか、正確なところを誰も知ることができない。

シリアのホムスは、今おそらく、ものすごくひどいことになっている。

ホムスの一角にあるバーバアムル地区は、「非武装のデモ隊を守る」という名目で武装している所謂「自由シリア軍(FSA)」(こんな重要なタームでもやはりウィキペディアの日本語版記事は存在しないので英語で)が「拠点」とする状態がずっと続いていた。そこに対し、2月上旬、1982年のハマの虐殺から30年を迎えたタイミングで政府軍が攻撃を強めた(一般市民の住宅街への砲撃をおこなった)。そして、軍事攻撃と封鎖(医療支援すら入れない)が続く中、多くの死者が出て、つい数日前にFSAが「タクティカルな撤退」をおこなったのだが、それで国際赤十字が現地入りできているかというとNO。シリア当局は「バーバアムルには爆発物が仕掛けられているので、それを除去するまでは赤十字を入れることができない」と説明している。これはほぼ間違いなく「遅延」のテクニックで、その「遅延」の間にものすごくひどいことがおこなわれていると考えるのは妥当なことだろう。

FSA撤退後のホムスについては:

Red Cross convoy bringing Baba Amr aid stopped in Homs
2 March 2012 Last updated at 21:29 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-17238220

Red Cross denied entry to Baba Amr for second day
3 March 2012 Last updated at 17:24 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-17243779

で、ホムスから脱出した英サンデー・タイムズのポール・コンロイ(写真記者)は、英国に到着し、さっそく病院のベッドで各メディアのインタビューに答えているのだが、非常に強烈な言葉を使って「懸念」を訴えている。
http://chirpstory.com/li/4731


"We left behind what I fear is going to be the next Rwanda, the next Srebrenica."

「私たちがあとにしてきたのは、第二のルワンダ、第二のスレブレニツァになるものかもしれないという思いが」と語るコンロイは、「決死の脱出行」を切り抜けてきたばかりだが、決して大袈裟に語ろうとしているわけではないと思う。しかしそれでも、この「たとえ」は、何と言うか、アメリカ人が2001年9月11日のことを「第二のパールハーバー」と呼んでいたような「そうたとえることで呼び起こす反響」のための暗喩のように思われてならない。

それとも、ホムスでは(ラジオに煽動された)住民が住民を襲撃している(「クレンジング」している)のだろうか。(正規軍・民兵含め)部隊が街に展開して家を1軒ずつ回り、「(戦闘年齢の)男を狩りだし」たりしているのだろうか。

コンロイ自身の言葉(下記)ではその裏付けがとれない。(「砲撃が加えられているが、バーバアムルには軍事標的はなく、一般市民が殺傷されている」という内容は、マリー・コルヴィンが死ぬ前の報告にもあった。)
"There are no military targets, it's pure and systematic slaughter of a civilian population. The only reason those shells are going in are to eliminate the people and buildings of Baba Amr."


「砲撃が加えられ、住民や家屋が壊滅させられている」状況を指すには、スレブレニツァはまだわかるにしても、ルワンダはどうにもわからない。というか、昨年国連が「戦争犯罪」と非難したスリランカ(2010年のLTTE掃討作戦)の状況が、取材者も立ち入り禁止にするなどの政府による措置も含め、非常によく似ているような気がするのだが、私が見た範囲では言及されていないようだ(見ていない or 見落としただけかもしれないが)。

(「まるでスリランカだ」といっても、英国人や米国人やカナダ人に大きなショックは与えられないだろうけれど。)

というわけで、コンロイ以外にどのような報告があるかを見てみたのだが、これがどうにもますますわからないというか……3月2日付のNYTのニック・クリストフのブログ(書いているのはクリストフの助手の人):
http://kristof.blogs.nytimes.com/2012/03/02/satellite-images-from-syria/?src=tp


“With reports of a surge in ground assaults on the people of Homs today, ...,” said Scott Edwards, director of Amnesty International USA's Tactical Response Unit, in a statement sent to us earlier this week.

「3月2日の週に送られたステートメント」ということは、ポール・コンロイの取材〜脱出のころの状況を踏まえたものだろう。そのころに「ground assaultsが急増している」という報告がある、とアムネスティ・インターナショナルが述べ……いや、初耳。私が見逃したか見てなかっただけかもしれないけれども。

というわけでググってみたのだが……



元々、NYTのブログでも "a statement sent to us" と明示されているのだが、それにしてもこの内容の声明がほかで報告されていないのは、なぜだろう。

語句を少し削ってググってみたけど、このNYTブログの抜粋しか出てこない。





ホムスのバーバアムルでは、(おそらくAvaazとFSAが手配したルートで)現地入りしていた英サンデー・タイムズ(ST)のマリー・コルヴィンと、フランスの写真家レミ・オーシュリックが死に、同じくSTの写真記者ポール・コンロイ、フランスのフィガロで書いているエディット・ブーヴィエが負傷し、ほかフランスやスペインのジャーナリストも含め(というか、コルヴィンとオーシュリックの遺体でさえも)街から脱出できない状態となっていたが、全員、脱出が確認された。つまり、「報道機関の目」は存在していない。市民ジャーナリストも殺された。
http://matome.naver.jp/odai/2133059258404269801



今日の分の「NAVERまとめ」:



あと、こうやっててもフォローしきれないほどたくさんの情報があるのだけど、それははてブで。2月にホムスがこうなるまで関心持っていなかったという人は、数か月分さかのぼってみてください(たいした量じゃない)。
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/Syria/

※この記事は

2012年03月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:02 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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