「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年10月15日

アンナ・ポリトコフスカヤの最後の記事

The killing has stopped and the transition to stability founded on a democratically elected government can gather pace. If only this were Iraq. ...

殺戮は終わり、民主的選挙で選ばれた政府に基礎を置く安定への移行が着実に前進---これがイラクのことであればどれだけよいだろう。

10月14日付、the Herald(スコットランドの地方紙)の社説の書き出しである。

今週(10月8〜14日)後半、スコットランドでは「北アイルランド和平」をめぐる非常に重要な会議が続かれた。トニー・ブレア、バーティー・アハーン両首脳と北アイルランドの各政党が揃った場で、「北アイルランド自治」の復活の具体的な日程が合意され、提示された。PIRAもLVFもUVFも、そしてUDAも、とりあえず政治目的での殺し合いをやめた。2003年の民主的選挙で選ばれた議員たちはいろいろあってまだ議員としての仕事ができていないが、今年11月24日には議会が再始・するだろう---というのが前提になったこの社説は、このあと、「英軍はイラクから早期に撤退すべきである」との陸軍参謀総長の発言に焦点を合わせている。

「これがイラクのことであれば」。この一節の「イラク」のところに代入可能な地域名は、現在いくつあるだろう。

最終的には「貧者の銀行家」が受けることとなったノーベル平和賞で、下馬評が最も高かったのが「アチェ和平」のユドヨノであったというどこか皮肉な事実を何となく思いつつ(そういえば北アイルランド和平でSDLPのヒュームとUUPのトリンブルがノーベル平和賞を受けている)、「殺戮は終わり、安定への移行が本格化---これが○○のところであれば」の「○○」に当てはまる地域名のひとつを具体的に考える。

アンナ・ポリトコフスカヤの最後の記事が、英訳されて、the Independentに上がっている。

The final dispatch of a reporter murdered for telling the truth
By Anna Politkovskaya
Published: 13 October 2006
http://news.independent.co.uk/europe/article1868072.ece

この記事はノヴァーヤ・ガゼータに掲載するために、ポリトコフスカヤが書いていたものだ。しかしこれを書き上げる前に彼女は殺された。

以下、内容がわかる程度に日本語化。ロシア語から英語への翻訳はAndrew Osborn記者(the Independentのモスクワ特派員)による。

毎日、何十ものファイルが私の机の上を行きかう。「テロ」容疑で投獄されている人たちに対する刑事訴訟の写しや、まだ調べ中の人たちについてのものだ。

私はここで「テロ」という言葉に引用符をつけている。それはなぜか。

なぜならばこれらの人たちの圧倒的多数が、当局によって「仕立て上げられた」テロリストだからだ。2006年、誰かをテロリストに「仕立て上げる」ことは、本当に対テロの検挙にとってかわっている。そしてそのことで復讐心に燃える人たちが、潜在的テロリストと呼ばれる人たちに、復讐をすることが可能になっている。

検察も判事も法にのっとった行動をしておらず、有罪である者を罰することには関心を抱いていない。それどころか、クレムリンの対テロのスコアシートの見かけをよくするという政治的な命令に従って動いているのだ。訴訟はブリニ(パンケーキ)のごとく、原材料に手を加えて仕上げられている。

「正直に話します」という供述を作り出す政府のベルトコンベアは、北コーカサス(つまりチェチェンのある地域)での「テロとの戦い」について適切な統計数字をあつらえることにかけてはとてもよくできている。

有罪判決を受けた若いチェチェン人の母親たちが私に送ってきた手紙を紹介しよう。「要するに、これらの矯正施設(つまりテロ容疑者が拘束されている施設)は、有罪と宣告されたチェチェン人にとっては強制収用所と化しているのです。○○人だからということで差別されます。大半が、というよりほとんど全員が、でっちあげられた証拠に基づいて有罪となっています。」

「劣悪な環境に拘置され、人間として辱めを受け、彼らはすべてのものに憎悪を抱くようになります。有罪判決を受けたことのある者たちはみな、これまで生きてきたすべてを無茶苦茶にされて私たちの元に戻ってきます。そして、彼らが自分を取り巻く世界をどう理解するかもまた、無茶苦茶になった状態です。……」

私は心底からこの種の憎悪を恐れている。私が恐れているのは、それが遅かれ早かれ爆発することになるからだ。そして、世界をこれほどまでに憎悪する若者にとっては、すべての人間が部外者のように見えるものだからだ。

テロリストを「仕立て上げる」ことが習慣的に行なわれていることは、2つのイデオロギー的なアプローチについての疑問を呼ぶ。私たちは無法と戦うために法を使っているのだろうか? それとも、「彼らの」無法を私たちの無法に合わせようとしているのだろうか?

先日、ロシアの要請に応じて、ウクライナがベスラン・ガダエフという人物をモスクワに引き渡した。彼はチェチェン人で、8月の始めに、クリミアで書類チェックを受けている間に身柄を拘束された。

彼は元々住んでいたところを追われ、そこに移住することを余儀なくされた人だ。8月29日に彼が私に出した手紙を少し引用しておこう。「ウクライナからグロズヌイに引き渡され、警察署に連行されて、Anzor Salikhovの家族とAnzorの友人の家族を殺したかと訊かれました。私は断じて誰も殺していない、ロシア人であれチェチェン人であれ、血を流させるようなことはしていないと答えました。しかし警官は『いや、お前は人殺しだ』と断言しました。私はここでまた、それは違うといいました。」

「彼らは私を殴り始めました。最初は右目のあたりを2度殴りました。(気が遠くなったのえすが)意識が戻り始めたときには彼らは私を縛りあげ、膝の後ろに固定した金属棒に手錠でつなぎました。手を動かせないようにです。どのみち、手錠はかけられていたのですが。それから彼らは私を持ち上げ---というよりも、私の脚の後ろ側にくくりつけた金属棒を持ち上げて、1メートルほどの高さのスツール2脚の間に吊り下げました。吊り下げるとすぐに、彼らは私の小指に針金をつけました。そして、ゴムの棍棒でそこらじゅうを殴りつけながら、電気ショックです。」

「どのくらい続いたのかはわかりませんが、痛みのあまり意識を失い始めました。これを見て、彼らは私に、どうだ、話す気になったかと訊くのです。私は、話ならすると答えました。でも一体何について話せばいいのかはわかりませんでした。ほんの少しの間でも拷問を受けない時間があればと口を開いたのです。彼らは私を下ろし、金属棒を取り外して、私を床にたたきつけました。『喋れ』と彼らは言いました。」

「何も言うことはない、と私は言いました。すると彼らは右目の辺りを金属棒で殴りつけてきました。さっきも殴られた場所です。それからまた先ほどと同じように私を吊り下げて、同じことを繰り返しました。それがどのくらい続いたのかは覚えていません。……何度も、彼らは私に水をかけました。」

「昼ごろ、平服を着た警官が近づいてきて、何人かのジャーナリストが話を聞きに来ている、3件の殺人と1件の強盗を自白しろ、と言いました。」

「その警官は私に、もし同意しなければ警察はお前に対してまた同じこと(つまり拷問)を繰り返し、お前を性的に攻撃して口を割らせるぞといいました。私はわかりました、そうしますと答え、ジャーナリストたちの取材に応じました。警察は私に、警官(の尋問)による怪我は、逃亡しようとしたときに負ったものだと証言しろと強要しました。……」

ベスラン・ガダエフの弁護人であるザウル・ザクリエフは、多権団体の「メモリアル」に連絡し、依頼人はグロズヌイ警察の敷地内で身体的・精神的暴力にさらされた、と知らせた。

ガダエフは「山賊罪」で起訴され、グロズヌイの第一刑務所の病院棟に拘禁されているが、そこでの書類には彼の怪我が詳細に記録されている。ザクリエフ弁護士はチェチェン共和国の検察官にこれらの苦情を提出している。

※記事はここで途切れており、未完である。


アンナ・ポリトコフスカヤ、『チェチェン やめられない戦争』(2004年、NHK出版)から少し引用しておこう。(日本語訳は三浦みどりさんによる。)

2002年、モスクワ劇場占拠事件のすぐ後のことだ。ポリトコフスカヤはメディアからの電話である女性の死を知らされる。
 十二月二日、またしても早朝。ラジオ局「エコー・モスクワ」から電話があった。「昨夜、チェチェンでアルハン・カラ村長のマリーカ・ウマジェヴァが殺されました。コメントをお願いします」 「え、どういうことですか? 殺された? 確かな情報ですか?」。そしてその事実を確認した私は悲鳴をあげる。
 軍人たちはその夕方ずっと装甲車で彼女の村をあちこち動き回っていて、真夜中、まさに外出禁止時間に迷彩服を着た何者かがマリーカの家に入り、彼女を納屋に連れ出した。マリーカの弟が亡くなってから、代わって育ててきた子どもたちが「迷彩服」の連中にしがみついて、殺さないでと頼んだが、むだだった。…… (pp.353-354)

マリーカが村長をつとめるアルハン・カラ村は「チェチェンでもっとも難しい村のひとつ」。マリーカの前任者は殺された。しかし彼女は連邦軍の非人道的行為(というよりも戦争犯罪)を前に、はっきりと非難の声をあげていた。そしてある冬の夜に、自宅から納屋に連れ出されて銃殺された。
 民衆の集会で選ばれたいわば貧しい村の村長であるマリーカを、わがロシア参謀本部の本部長クヴァシニン将軍……は憎み抜いていた。しかも、あまりに憎んでいて、テレビカメラに写るチャンスを利用してありとあらゆるくだらない中傷をマリーカに向けた。彼女はどうしたか? 彼女は自分が選んだ道をまっしぐら、クヴァシニンの嘘を裁判に持ち込んだ。……クヴァシニンが自分を恐れないものを決して容赦しないということも知っての上で。
 カディーロフはグローズヌイの政府にあってマリーカを追い払おうとした。……なぜなら「カディーロフに幸せにしてもらう」はずの国民に信頼されず、クレムリンの後ろ楯によってのみ見栄えのするカディーロフを、マリーカが「国民を売った者」と呼んでいるからだ。また、カディーロフが今めざしている「国民によって選ばれたチェチェンの大統領」になることを、マリーカはあらゆる手段で阻止しようとしているからだ。……
 ……
 ……私はマリーカのあのキーワードとともに彼女が言っていたことを思い出した。「アーニャ、なんて欺瞞に満ちた戦争なの! 私が一番恐れているのは誰だと思う? もちろん連邦軍よ。だってあの連中にとって侵してはいけないものってないんですもの。チェチェンの側も同じだけど、でもこっちは無法者でしょ、あっちは憲法の名においてやってくるんですもの」 (pp.355-356)


「最後の」記事で、ポリトコフスカヤはこう書いている。
私たちは無法と戦うために法を使っているのだろうか? それとも、「彼らの」無法を私たちの無法に合わせようとしているのだろうか?

未完に終わったこの記事は、チェチェンの「警察」(=法執行機関)の「無法」の具体例のところで途切れている。

警察ですら「無法」であるというこの現実を、ポリトコフスカヤは告発しようとしていたのだと思う。

だがこの類の「無法」は、決して「彼らの」、つまり「テロリストの」無法ではない。

例えば,1971年,アイルランド北部における一斉拘留の後に用いられた尋問テクニックは,英軍将校によって王立アルスター警察隊(RUC)に教えられたものだった。誰かがこれをオーソライズしたのだ。「デメトリウス作戦」と呼ばれる最初の一斉拘留では,何百という人々が殴られたり,犬をけしかけられたり,警棒で打たれたり,靴で蹴られたりといったことが,システマティックに行われた。

服を脱がされ,頭に黒い袋をかぶせられた者もいる。袋は光を完全に遮るもので,頭から肩までこれをかぶせられるのだ。壁に向かって四肢を広げて立つと,脚を下から蹴られる。睾丸や腎臓を警棒や拳で殴られ,股間を蹴られる。ベンチに寝かせられ,身体の下にラジエータや電気ヒーターが置かれる。腕がねじ曲げられ,指がねじ曲げられ,肋骨をしたたかに殴られ,肛門に物を突っ込まれ,マッチで火をつけられ,ロシアン・ルーレットをやらされる。ヘリコプターに乗せられ宙吊りにされた者もいた。中空高く飛んでいると思っているが,実は地上5〜6フィートでしかなかった。彼らは常に袋をかぶせられ,手錠をかけられ,途切れることのない高音のノイズを聞かせられていた。……

そして,こういったケースは欧州ではなくなり,英国政府は何千人にも補償として金を支払ったが,それでも拘留者(detainees)の拷問や虐待(torture and ill-treatment)はなくならなかった。ただ,英国政府や英軍,情報機関が,いかにしてそれを行うかについてより慎重になっただけだったし,また,拷問を加える者たちを守り,有罪である者を白日の元にさらすことを非常に困難にするよう法律を改正するよう作用しだけだった。

出典:
I Have Been in Torture Photos, Too -- Abu Ghraib is No Surprise to Irish Republicans
私も拷問写真に写ったことがある――アブ・グレイブはアイルランドのリパブリカンにとっては驚くべきものではない
http://www.geocities.jp/nofrills_web/translation/adams_june2004.html

1970年代の北アイルランドで自身もこのような「苛烈な尋問」を受けたジェリー・アダムズは、2006年10月、北アイルランドのナショナリスト最大政党の党首として、セント・アンドリューズのサミットに出ている。

1970年代の北アイルランド:
http://ch00917.kitaguni.tv/e50444.html

もう一度、最初のthe Heraldの社説の書き出し部分を見ておこう。パラミリタリーのkillingも、治安当局によるtortureも過去のものとなった北アイルランドのことだ。
The killing has stopped and the transition to stability founded on a democratically elected government can gather pace.



なお、The Independentの記事はウェブページを保存するなり、Furlでキャッシュを残しておくなり、Firefoxの拡張でローカルに取っておくなり、「あとで読む」を利用してメーラーに送っておくなりすると便利。

※この記事は

2006年10月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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