「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年02月28日

イアン・ペイズリーが退院した。

2月5日に緊急入院していたイアン・ペイズリーが、退院し、自宅で静養しているそうだ。ご家族から発表があった。

Heart-scare Paisley out of hospital
Tuesday, 28 February 2012
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/northern-ireland/heartscare-paisley-out-of-hospital-16123669.html



関連の過去記事:
2012年02月07日 イアン・ペイズリーが倒れた。
http://nofrills.seesaa.net/article/250826995.html

2012年02月10日 イアン・ペイズリーの入院について
http://nofrills.seesaa.net/article/251472756.html

イアン・ペイズリーといえばサニングデール合意、アングロ・アイリッシュ条約など「北アイルランド紛争」時の「和平」への取り組みにずっと「No」を言い続けていた、「0か1か」の極論主義者であった。

特に1970年代から80年代、北アイルランドの一般の人々(労働者階級の、政治家とは別の階層の人々)の間での「議論」の基本をセットしたのは、ペイズリーらの極論だった。ユニオニスト側でその「極論」が主導権を握り、対立するもう一方の勢力(ナショナリスト側)でも「極論」が主導権をとった。(特にナショナリストの側では「論」よりも「実力行使」が、いろいろな意味で優先されたのだが。)

Neverを連発するペイズリーさん:


2002年から「ストーモントにIRAのスパイがいる」騒動(後にその事実はなかったと判明)でサスペンドされていた自治議会を一新した2003年の北アイルランド自治議会選挙で、まだまだNo, no, noしか言ってなかったペイズリーのDUPがユニオニスト最大政党になったときは、時の英国首相トニー・ブレアが「最も極端な極論主義者をメインストリームに持ってくることで和平がなる」みたいな苦しいコメントをしていたが、結局は、2006年の後半に自身が主役となって進められた交渉でNoを言うことをやめ、仇敵であるジェリー・アダムズと直接会談し、そして2007年に再起動した北アイルランド自治議会&自治政府で、サニングデールのころから2006年まで一貫してNo, no, noを言って来た「自治議会・政府におけるシン・フェインとのパワーシェアリング」という形式を受け入れ……というか、受け入れたばかりでなく自身がそのトップになった。NI自治政府は2トップ体制で、ペイズリーの隣には常にシン・フェインのマーティン・マクギネスがいて、彼ら2人の、というか特にペイズリーの、「紛争」時代が幻であるかのような笑顔の振りまきっぷりに、「チャックル・ブラザーズ」(子供番組のキャラクターで、いつもチャックル=にこにこしている)というあだ名がつけられたほどだ。

最近になって政界から引退したペイズリーは、宗教指導者としても引退し、以降は自宅で回想録を執筆しているという。今回の退院でしばらく静養して、また執筆を再開することだろう。

「議論」の主導権を、ああいう過激派というか、「極論」でしか考えない人、別の話題を話しているときも必ず、相手がその問題意識を共有しているかどうかで相手の人格までも判断する人が握った場合に社会全体がどうなるか、という点で、ペイズリーとその周辺の軌跡はもっと検討されてよいと思うし、これからその取り組みが開始されることになるのだろうが、そのために、本人の回想録は非常に貴重なものとなりうる。書き上げていただきたい。



ところで、ピーター・ヘインの回想録も、かなりおもしろそう。
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/Peter%20Hain/

1849541183Outside In
Peter Hain
Biteback 2012-01-19

by G-Tools

※この記事は

2012年02月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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イアン・ペイズリーが完全復活した。
Excerpt: ※以下、本稿の「イアン・ペイズリー」は、息子(英国下院議員)ではなく父親のほう。 今年2月、急病で病院に搬送され、しばらく集中治療室に入っていたイアン・ペイズリー(1926年生まれ)が、完全復活を遂..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2012-10-29 05:45

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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