「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2012年02月27日

北アイルランドの映画が、オスカーを獲得した。

前評判の段階から、どこを見てもThe Artistばっかり、という印象があった今年の米アカデミー賞だが(ゴールデン・グローブも、英アカデミー賞=BAFTAもそうだった。日本ではけっこう宣伝されてるらしいHugoは、ほとんど有力視されてなかったと思う)、商業的には注目されない部分なので日本ではほとんど話題にもならないのが常の「短編劇映画」部門で、北アイルランドの映画、The Shoreが最優秀作品に選ばれた。
http://theshorefilm.com/

この映画がベルファストで上映された際のBBC記事に、映画のクリップと、監督&主演のちょっとしたインタビューがついている。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-16703951

トレイラー:


監督はテリー・ジョージ。名前をご記憶の方も少なくないだろう。日本では劇場未公開となりそうだったところを、観客サイドからの「見たい」という声が主にオンラインでまとめられるなどした結果、劇場公開されヒットした映画、『ホテル・ルワンダ』(2004年)の監督だ。彼は過去、この作品と『父の祈りを』(1993年)の二本の作品で米アカデミー賞脚本賞にノミネートされているが、オスカー像を手にするのは今回が初めてである。


Oscars 2012: Belfast's Terry George wins award for The Shore
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/northern-ireland/oscars-2012-belfasts-terry-george-wins-award-for-the-shore-16123080.html

Belfast man Terry George celebrates Oscar success
27 February 2012 Last updated at 09:46 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-17176137

受賞のスピーチで、テリー・ジョージは次のように、「和解」について述べている。(実際、この人が北アイルランドでこの作品を撮影したこと自体がその表れだ。)

"Our little film was inspired by the people of Northern Ireland, Protestant and Catholic, who after 30 years of war, sat down, negotiated a peace and proved to the world that the Irish are great talkers," he said.

"I want to dedicate this to them.

"This is about reconciliation in Northern Ireland, it is really close to my heart."

「この作品の源泉は、北アイルランドの人々、プロテスタントもカトリックも含め、30年に及ぶ戦争(紛争)の後に腰を下ろし、和平を交渉し、そしてアイリッシュは弁が立つということを世界に示した人々にあります。今回の受賞を、これら北アイルランドの人々に捧げます。この作品は、北アイルランドでの和解というものについての作品です。私自身にとって、非常に近しいテーマです」


1952年にベルファストに生まれたテリー・ジョージは、10代のときにリパブリカン武装組織で活動しているとしてインターンメントの対象となった。一度は解放されたがまた投獄され、出獄後の1981年には渡米し、以後米国を主要な拠点としている。

1993年に、1970年代のイングランドでの冤罪事件の被害者ジェリー・コンロンの回想録に基づいた長編劇映画、『父の祈りを』(ジム・シェリダン監督)の脚本を手がけ、1996年には自らメガホンをとって、1980年から81年のメイズ刑務所(ロング・ケッシュ)でのダーティ・プロテストとハンストを題材としたフィクションの長編劇映画『Some Mother's Son』を制作、97年にはやはり北アイルランド紛争に取材した(IRAの「内幕もの」ともいえる)『ボクサー』の脚本を担当するなど、「北アイルランド紛争」にかかわる作品が多いが、米国では北アイルランドとは関係のないテーマでも作品を手がけている(IMDBなどで確認ができるが、『ホテル・ルワンダ』のほか、軍隊ものなどがある)。

というわけで、1980年のブレンダン・ヒューズのハンスト、81年のボビー・サンズのハンストを、テリー・ジョージは間近で見ていたのだが、そのことについて、ハンストから15年目に制作・公開されたハンストがテーマのフィクション映画、Some Mother's Sonのときのインタビューで、次のように語っている。
http://www.iol.ie/~galfilm/filmwest/25terry.htm

What were you doing at the time of the hunger strikes?
ハンガーストライキのときは、何をなさっていたのでしょうか。

... During the hunger strikes, I was in Belfast and a friend, Miriam Daly, a woman who encouraged me and helped me in the process of getting into Queens University as a mature student, was murdered because of her involvement in both the IRSP and the relatives action committee. This was in mid 1980 and there was a concerted campaign by a section of the UDA, or their military wing, the UFF, to hit at the growing political activism around the H-Block. Miriam Daly was assassinated, Bernadette McAliskey was shot and several other activists were killed. Rita my wife, and I attended the hunger strike protest marches and we knew a lot of the people involved. We were at the centre of the agitation at the time. At the time of the dirty protest at the beginning of the hunger strikes a crowd of us formed a student action committee, the Student's Campaign Against Repression (SCAR). I suppose it was somewhat reminiscent of Bernadette and Michael Farrell. We organised debates in the various universities around the country. Then Miriam was assassinated. I'd actually been driving past the house when I saw the commotion outside and I went over. The cops had just left and her brains and her blood were all over the.... And you saw all of that? I cleaned it up. Rita had worked for her as a kind of nanny-secretary......

(メイズでの)ハンストの間はベルファストにいました。友人にミリアム・デイリーという人がいて、私にクイーンズ大に行くことを勧めてくれた人なんですが、彼女はIRSP(注:INLAの政治部門とされる社会主義政党)と(囚人)縁故者委員会の両方で活動していましたので、それで殺害されましてね。1980年半ばのことで、(メイズの)H・ブロックに関わる政治的なアクティヴィズムを標的にして、UDAの一部門とその武装組織のUFFが大掛かりなキャンペーンを展開していました。ミリアム・デイリーは暗殺され、バーナデット・(デヴリン・)マカリスキーは銃撃され、ほかに数名の活動家が殺害されました。私は妻のリタともども、ハンストの抗議デモに参加していて、活動の中の人たちを多く知っていました。私たちは当時、アジテーションの真ん中にいました。ハンストの始まりのころのダーティ・プロテストのとき、私たちはSCARという学生委員会を組織しました。ちょうど(60年代終わりに)バーナデットやマイケル・ファレルがやっていたような感じだったのではと思います。全国の大学で討論会を開催するなどしていました。そんなとき、ミリアムが殺された。ちょうど車で通りがかったときにざわざわしていたので行ってみたら、ちょうど警察が引き上げたところで、ミリアムの脳や血がそこらじゅうに……おわかりでしょう。私がそのあとをきれいにしたのです。妻のリタはマリアムの子守兼秘書のようなことをしてました。……

I also heard that you'd been in prison in Northern Ireland.
北アイルランドで投獄されていらっしゃったとのことですが。

Twice. I was interned in 1972 when I was nineteen.

2度ありますよ。1972年にインターンメントで。19歳でした。

And why?
理由は。

I lived in the Protestant area of Castlereagh Road, but my friends and relatives who all came from the Short Strand area were peripherally involved in '72, the IRA and the Fianna and all. I wasn't involved at all but because of my association with them..... in the general round up my name came up in interrogations. They lifted me and I was interned for two months. What did that do to your attitude? It hardened it a lot, it confirmed all the suspicions and fears and I guess prejudices I had about Unionist and British policy in Northern Ireland at the time which was basically round up the Catholic population and lock them away.

家があったのは(東ベルファストの)キャッスルリー・ロードというところで、プロテスタントのエリアだったんですね。ただ友人や親戚はショート・ストランドの出で、72年のIRAだの何だのにはみな、ちょっとは関わっていたんですね。私は一切関わっていなかったのですが、友人や親戚との関係のせいで……つまり、尋問で私の名前が出てきて。それで連行され、2ヶ月、拘留されました。その結果どういうことににあるかというと、強硬になってしまうんですね。当時の北アイルランドでのユニオニストと英国の政策について抱いていた疑念や恐怖、それから今思えば偏見というものもあったんですが、それらがすべて、あの拘留によって、事実として確定されてしまった。つまり、カトリックの連中はとりあえずみんなしょぴいて、隔離しておけ、という政策ですね。

Yet before the Troubles, having grown up in a Protestant neighbourhood, you had Protestant friends?
しかし「紛争」の前は、プロテスタントのエリアで育ったということは、プロテスタントの友達もいらっしゃったのでは。

That's all I had. A few of them ended up in the UDA and one of the ones who was my, you know, best mate at eleven and stuff like that, he ended up in the RUC. It was a very staunch Protestant neighbourhood.

友人はみんなプロテスタントでしたよ。何人かは後にUDAに入ったし、11歳のころに一番仲良くしてた奴なんかはあれですよ、警察、RUCに入りました。非常にはっきりとした、プロテスタントのエリアだったのです。

My mother was from the Markets area and my father from Short Strand. My father ran a car business and aspired to get on in life so we moved to what would be considered a middle or lower middle class suburb and tried to move up the ladder. The tensions that were under the surface reared their head around the marching season, when suddenly I wouldn't be allowed to collect wood for the bonfire and stuff like that, so I was always aware of the division, the sectarian division, that we were a minority and second class to some degree because of our religion. ...

母はマーケッツ地区の出で、父はショート・ストランドなんですが、父は車の仕事をしていて、商売をうまくやって郊外のミドルクラスかロウアーミドルクラスの地域に引っ越して、社会の梯子を上れるようになりたいとがんばっていました。水面下の緊張が頭をもたげたのは、(夏の)パレードの時期ですね。その時期になると急に、ボンファイアで燃やすための木を集めちゃダメと言われたりですね。なので常に、分断のことはわかってましたよ。宗派の分断があること、宗教が原因で、私たちは少数者であり、ある程度はセカンドクラス(劣等)だということも。

I was a token taig. Some of my cousins would come visit and it was a bit like Indian territory for them. But this was pre-troubles, the O'Neill period, a period of moderation. So there was a bit of intermingling. Then all that stopped in '69 when the troubles broke out...I was surprised how the division in the community I lived in happened so quickly. Within the space of eighteen months or so, what had been a relatively integrated neighbourhood fell apart immediately and Catholics were intimidated to move out pretty rapidly...

(地域の中で)私はカトリックのサンプルみたいなものでした。いとこが遊びに来たりすることもあったんですが、彼らにとってはちょっと(アメリカン・)インディアンの領地みたいなもんだったんですよ。でもそれは「紛争」の前、オニールが北アイルランド自治政府の首相だった時代、(極端にいかない)中庸の時代でした。だから互いに交流もあったんですね、少しは。しかし1969年に「紛争」が始まり、そういう交流は途絶えた。……自分の暮らすコミュニティの中の分断がいかに速く進むか、びっくりしたものです。18ヶ月かそこらのうちに、両宗派が混じり合っていた地域が維持不可能になり、カトリックは出ていけと脅迫を受け、次々と引っ越していった。……

...Later, my arrest and internment was based on coerced and false information. It was ridiculous, a general fish net. They were taking young guys, 17, 18, to Castlereagh and to Hollywood Barracks to be brutally interrogated, so they were naming just anybody they could, just to stop it. That was how I ended up on the Maidstone prison ship and the McGilligan prison camp. You arrive there and the head of the Provos and the head of the Official IRA come up and they ask "who are you with?" and you say "I don't know" and they say "well, pick somebody!" It wasn't "join up" or anything, it was just that either section controlled where you slept and that. I was never a big fan of the Provisional IRA's nationalist politics or their bombing campaign so I kind of moved in with the Officials and sat where they were eating.

……後年、私は逮捕され拘留されるのですが、それも強要の挙句引き出した虚偽の情報に基づいていました。信じがたいような、地引網のようなやり方でした。17歳とか18歳といった年齢の子をまずはキャッスルリーへ、それからホリウッド軍施設へ連行して、苛烈な尋問(=拷問)を加えた。そんなことをされれば、(尋問を)やめてもらうためだけに、口から出まかせでもなんでもとにかく名前を言う。私が監獄船と収容所に入れられたのは、そういう経緯でのことでした。投獄されるとPIRAのトップとOIRAのトップが来て、「お前、誰の連れだ」と訊くんですね。「知らん」と答えると、「じゃあ、適当に誰か選べ」と。「加盟する」とかそんなんじゃなかったんですよ。寝る場所を管理しているのはどの組織か、みたいなことでした。私はPIRAのナショナリズムの政治理念や爆弾闘争があんまり好きではなかったので、OIRAのほうに行って、それで寝食をともにしていたんです。


1972年のこの「インターンメント」から解放されたあと、彼はOIRAの分派のINLAとつながりの深い政治組織、IRSPと関わることになる。『ホテル・ルワンダ』の公開に尽力した「ルワ会」さんのブログのエントリ(2005年9月)から:
http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/50126448.html

1度目の拘留からようやく解放された後、テリーはIRSP(アイルランド共和国社会党)と関わるようになります。時勢は悪化する一方で、双方の陣営は大量の過激派を生み出して衝突を重ね、72年には有名な「血の日曜日事件」が起こります。

……

話を戻しましょう。テリーは1度目の投獄から解放されたあと大学へと通いはじめます。それからダブリンで出会い交際を続けていた女性と婚約を果たします。しかしそれが幸せな生活のように思えたのも束の間、ある日、彼は車中にいるところを取り押さえられ再び逮捕されてしまいます。同乗者が銃を持っていたため、今度は前のように短期間の拘留というわけにはいきませんでした。

「私の逮捕後、婚約したばかりの妻はしょっちゅう手紙を送ってきたり面会に来たりしてくれた。そう、あれはいわゆる“刑務所の愛”ってやつだった。出所後、80年代の半ばには娘が生まれ、僕らはなんとか安定した暮らしが送れるように努力した。しかしハンガー・ストライキ(IRAのメンバーだったボビー・サンズが刑務所内でハン・ストを決行して話題になった。テリーは後にこの事件を題材に初監督作を完成させる…しかし日本では未公開、しかもビデオ未発売)など、この地における激しい対立の余波は簡単になくなりそうには思えなかった。僕らはそれでアメリカへと旅に出たんだ。僕らはしばらくアメリカをさまよった。そして、互いに口に出さずともこう思っていた。『こんな人生はもうたくさんだ』と」

どうやら2度目の投獄、出所をきっかけに、テリーの心には大きな変化が生じたようでした。祖国がますますの混沌化に陥る中、愛妻の支えと、そして争いの中で生を受けた娘の存在は、彼にとってどれほど大きな希望に満ちたものだったか想像に難くありません。

それから十年ほど月日が経ってから、テリーはその後の人生についてこう語っています。

「僕ら家族はいま、アイルランドとニューヨークを行ったり来たりの生活を送っている。長きに渡って僕らはアメリカの地で不法滞在者だった。妻は今でこそアメリカ国民として市民権を獲得したが、僕はいまだにワーキング・ビザで生活している。その理由?この“二つの国を自由に行き来できる”という感覚が好きだからさ。そうすることで自分の魂がどちらの文化からも自由に解放されていくような気がしてね」


オスカーをとったThe Shoreは、25年前に米国に移住した北アイルランドの男の故郷再訪の物語。映画の中で男は娘を北アイルランドに連れてきているのだが、上記引用のような経緯で生まれたテリー・ジョージの娘は今回のこの短編映画の制作資金を集めるなどプロデューサーの役割を果たし、授賞式に父と一緒に出ている、とBBC記事などにある。

撮影はダウン州東岸のConey Islandと呼ばれる地区(ヴァン・モリソンの歌にある)で行われたそうだ。主演はテリー・ジョージと同世代で同じくベルファスト出身(ただしテリー・ジョージのように東ではなく北……こちらもセクタリアン・ディヴァイドはすごい)のキーラン・ハインズ(ハリー・ポッターのダンブルドア)。この人もバックグラウンドはカトリックだそうだ。

撮影地について、BBCより:
The Shore was filmed on Terry George's family cottage at Coney Island near Ardglass.


んで、2005年にテリー・ジョージ自身が書いたエッセイ:
http://web.archive.org/web/20080706084921/http://www.irishabroad.com/irishworld/irishamericamag/octnov05/features/our-legacy.asp

2005年、IRAの「武装闘争停止」宣言を受けて、北アイルランド紛争での犠牲者3,638人について、ひとりひとりの「物語」を書いた本を読み直している、という内容のエッセイ。その3,638人の中には何人も、知っている人がいる、と。そのひとり:
No. 275 is Gerard Bell, 19. His nickname was “Dinger Bell.” I went to dances with him in Ardglass, County Down. He was blown up along with three other IRA men who were transporting a bomb in a car. I’d no idea at the time that he was in the IRA. As the funeral was leaving the Short Strand area, loyalists on the other side of the road sang the Dave Clarke Five hit “Bits and Pieces.”

275番はジェラルド・ベル。「ディンガー・ベル」と呼ばれていた。一緒にダウン州アードグラスでのダンスパーティに行った。彼は、車で運搬していた爆弾が爆発して、ほかの3人のIRAメンバーと一緒に爆死した。当時私は彼がIRAのメンバーだとはまったく知らなかった。葬列がショート・ストランド地区を去るとき、道路の向こう側にいたロイヤリストたちは、デイヴ・クラーク・ファイヴのヒット曲、Bits and Pieces(こなごなでばらばら)を歌っていた。



さて、今年のオスカーでは、表舞台の華やかなところ(メインのショーレース)とは別に、「政治的」なムードが濃い一面もあった。(米国から見た)「外国語映画」で、ほかの映画賞もうけているイランのA Separationという映画が受賞作に選ばれた。そのことについて、ガーディアンの記事より。

Perhaps the most resonant moment came early on, when Iranian director Asghar Farhadi came up to accept his Oscar for best foreign film for A Separation. Unfolding a large piece of paper, he read out a carefully worded plea for peace "at the time when talk of war, intimidation, and aggression is exchanged between politicians."

Iran, he said "is spoken here through her glorious culture, a rich and ancient culture that has been hidden under the heavy dust of politics." His film has been used as a political football by the regime back home in its struggles with the west. It may finally have been allowed to do some diplomatic good.

http://www.guardian.co.uk/film/2012/feb/27/oscars-2012-artist-win-hugo




北アイルランド紛争の「元テロリスト」が映画人として米アカデミー賞で話題になったことは以前にもある。2005年。元IRAの爆弾事件で有罪になった人が俳優になっていて、出演作がThe Shoreと同じく短編劇映画部門でノミネートされた、という話題。映画のタイトルは "Everything In This Country Must" で、IMDBでも出てくる(そしてコメント欄で「お約束のdis」が読める)。
http://www.thefreelibrary.com/FORMER+IRA+BOMBER+UP+FOR+MOVIE+OSCAR%3B+EXCLUSIVE+Guildhall+bomber+in...-a0127912072
It tells the story of a young soldier in Northern Ireland who is involved in an accident that kills a mother and her child and then finds himself confronted by the consequences of his actions. Later, the same soldier helps a farmer and his daughter save their drowning horse.


ああ、この人、Five Minutes of Heavenでジョー・グリフィンのお父さんやってる。
http://www.imdb.com/title/tt1238291/fullcredits#cast
http://www.imdb.com/name/nm1029096/
(Kingsも私、見てるけど、Pawnbrokerがわからない……)

あら、映画会社が全部、Vimeoにアップしてる。
http://vimeo.com/26135598



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※この記事は

2012年02月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼