◆「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

◆「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年02月24日

「息子さんはお気の毒なことをしました。しかし戦争ですからこういうことも起きます」



デリーのカトリックの「ゲットー」、クレガンに住む9歳のゴードンは、その日、自宅の庭で弟と駆け回って遊んでいたときに、何かにつまずいた。その「何か」は爆発し、ひどい怪我をしたゴードンは、搬送先の病院で息を引き取った。

幼いわが子を失ったビリーとパット夫妻の元に、IRAに属する若者2人がやってきた。

「爆発物をおたくの庭に置いたのはIRAです」と彼らは認めた。「しかし、起爆装置はつけていなかった。起爆装置をつけたのは英軍です」

このばかばかしい話を、ビリーもパットも信じなかった。

その2週間か3週間後、IRAの2人の片方の妻がやってきて、詫びた。

「息子さんはお気の毒なことをしました。しかし戦争ですからこういうことも起きます」

「うちの子は戦争とは関係ありません、わずか9歳の子供が」。

ビリーは彼女を玄関先で追い返した。

1973年2月の、このひどい事件について、IRAが全ての責任を認めた。「起爆装置は軍が」云々が嘘だったことを認めたのだ。

そのことを報じるBBCの記事のタイトルの、あまりのむごさに、しばし絶句した。

Father of Gordon Gallagher pleased republicans admit son's killing
24 February 2012 Last updated at 11:10 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-17152390

「ゴードンちゃんの父は、リパブリカンが息子を殺したことを認めて、喜んでいる」。

(「喜んでいる」という日本語はこのpleasedとは少し違うような気もするのだが、代替の表現が見つからないので当面このままで。)

実は22日にこんな記事が出ていた。

McGuinness pressed over bomb death
Wednesday, 22 February 2012
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/northern-ireland/mcguinness-pressed-over-bomb-death-16121064.html

当時デリーIRAを率いる立場だったマーティン・マクギネスに対し、マクギネス本人はこの爆弾事件のときは獄中にあったものの、爆弾の犯人は誰なのか把握しているはずだ、というプレッシャーがかけられている、という内容の報道だ。

Speaking to BBC Radio Foyle, Mr Gallagher said he was not at home at the time of the explosion, but was nearby and heard the bomb go off. He went to the hospital to be with Gordon, while his wife stayed at her mother's house with their other children.

"I went to phone Pat to say he was conscious," said Mr Gallagher. "He was wheeled past me into theatre when I was on the phone. He died at half past five. I was talking to him, I thought he was going to be all right but they said it was the loss of blood."

BBC Radio Foyleでギャラハーさんは、爆発のあったときは、家の中にはおらず近くにいたが、爆発の音が聞こえたと語った。彼はゴードンに付き添って病院に行き、夫人は実家に他の子供たちを連れて行った。

「(病院で)ゴードンは意識はあるよと妻に連絡するために、電話をかけに行きました。私が電話で話しているその脇を、息子は台に載せられて手術室に入っていきました。5時半に息を引き取りました。息子とは話ができていました。大丈夫だと思っていたのですが、病院の話では失血がひどかったのだ、と」


IRAの生命は、Pat Finucane Centreのサイトにアップされていて、誰でもDLして読むことができる。PDFファイル。
http://www.patfinucanecentre.org/cases/gordongallagher.pdf

Because of the potential danger to the community the IRA made the decision to notify the RUC/British Army through an anonymous phone call – this clearly indicated the location at the rear gardens behind Melmore/Leenan gardens.

Following the phone call the immediate district was then saturated by British troops. The IRA, believing that the British Army had discovered the device during the course of their search, withdrew from the area believing the British army would have cleared the area and rendered the device safe.

The IRA felt that if they had moved back to retrieve the device given that the British Army now heavily saturated the area they would be captured or shot.

The following morning young Gordon went out to play in his garden and accidentally triggered the explosive device.

Republicans fully accept their responsibility for the death of Gordon and apologise to the parents and family of Gordon Gallagher for the pain and grief caused.

Republicans remain truly remorseful and profoundly sorry for the circumstances that led to Gordon's death.


さあ、だれか、私に、これのどこが「800年に渡る英国の圧制に対する正当な抵抗の闘争」なのか、説明してくれないか。むろん、ゴードンが死んでしまった後に、IRAはご両親に「起爆装置取り付けたは俺らじゃなくて英軍っすよ」などというくだらない嘘を告げていたという事実も込みで。

メンバーの妻(詫びの内容から、彼女も爆弾のことは知っていたと思われるが、そうなるとおそらく夫婦ともどもIRAメンバーなのだろう)が「これは戦争だ」云々、戦士同士のレトリックを、幼い息子を奪われた親に告げたことも込みで。


1973年にゴードンは9歳だった。生きていれば48歳になっている。

※この記事は

2012年02月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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