「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年10月13日

アンナ・ポリトコフスカヤにテルツァーニ賞。

Google News UKのトップページの「注目のキーワード」みたいなところにまたアンナ・ポリトコフスカヤの名前があったので見てみた。
http://news.google.co.uk/news?num=30&hl=en&ned=uk&ie=utf-8&q=Anna-Politkovskaya
(→魚拓

最後の記事(未整理の原稿として残された)がノヴァーヤ・ガゼータに掲載されたこと、UNESCOの声明など、新しい記事がいくつも出ているのだが、その中に、「文学賞を受賞」というものが3つある。いずれもロシアのニュースサイトの英語版の記事だ。そのなかの1つ。

Russian journalist Anna Politkovskaya awarded with literary prize posthumously
http://english.newslab.ru/news/203308
Russian journalist Anna Politkovskaya was awarded with Tiziano Terzani International Literary Prize 2007 Tiziano Terzani. The decision was made unanimously to mark rare moral courage of Anan Politkovskaya, who paid her life for criticism of power abuse, "Svoboda" radio station reported. The award ceremony is to be held in Udine, Italy, on May, 12. The award will be passed to editor-in-chief of "The Novaya Gazeta" Dmitry Muratov.

来年5月12日に授賞式が行なわれる「ティツィアーノ・テルツァーニ賞」をアンナ・ポリトコフスカヤが受賞、選考委員会満場一致、という報道だ。

ティツィアーノ・テルツァーニって、『反戦の手紙』のティツィアーノ・テルツァーニではないか。

反戦の手紙

商品画像だとわかりづらいが、この表紙、白on白のデザイン。

久しぶりにこの本を手にとってぱらぱらとめくってみて、「チェチェン」の文字列を含むパラグラフを見つけた。ポリトコフスカヤのテルツァーニ賞受賞ということで、そのパラグラフを引用したい。2001年9月14日に、イタリアのオルシーニャという村の、おそらく自宅にて書かれた文章の一部。書籍のpp.51-52より。
 いま、ひとつの奇妙な同盟が機能しはじめている。この同盟は、北大西洋条約機構のように、現在では成立当初とは異なった目的のために利用されている諸同盟機構の機械的な参加に加え、極端に国家主義的なそれぞれの利益のために参加する中国やロシアなどの国々によってなりたっている。後者の国々には、おそらくインドもふくまれるはずだ。中国にとって、反テロ戦争に参加することはなにより、国境地帯のイスラム少数民族との間に古くからかかえる諸問題を解決するいい機会となる。プーチンのロシアにとっては、チェチェン問題を解決する機会であり、チェチェンでのモスクワの軍隊による恐るべき非人道的行為にたいする非難の声をかき消す絶好の機会なのだ。インドにしてもやはりおなじことで、カシミール地方の所有権をめぐる長きにわたる紛争の解決をはかることができる。


この本を翻訳なさった飯田亮介さんのサイト:
http://www.ryosukal.com/

以下、
http://www.ryosukal.com/tt/tt.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Tiziano_Terzani
を参考に。著作名は飯田さんのページからのコピペです。

テルツァーニは1938年、フィレンツェの生まれ。1938年のイタリアといえば、ムッソリーニ政権下だ。国王ウンベルト2世がファシストの政策を支持し、後々ヴィスコンティとかパゾリーニとかが映画というメディアで書き残したあの時代だ。第二次世界大戦が終わったときは6〜7歳。

そのころに生まれた人たちが私たちの世代やその後の世代よりもはっきりと目撃しているもののひとつが「東西冷戦」だ。そして実際テルツァーニはアジアで、つまり冷戦という名前の熱い戦争の現場でそれを直接目撃して(私はアジアに生まれてアジアに育ったが、熱い戦争は知らない)、それをことばで伝えてきた人だ。

1965年、仕事(企業研修の講師)で来日したのがアジアとの縁のはじまり。1971年、ドイツの『シュピーゲル』の特派員としてシンガポールに。ヴェトナム戦争只中の1973年に『Pelle di leopardo(豹の毛皮)』で出版活動開始。1975年、共産主義政権の樹立をサイゴンで目撃したことから書かれた『Giai Phong! La liberazione di Saigon(サイゴン解放)』は世界各国で翻訳され読まれている。以後、香港(当時は英領)、北京(中国)と暮らし、1981年にヴェトナム軍が軍事介入した直後のプノンペン(カンボジア)を訪問、『Holocaust in Kambodscha(カンボジアの大虐殺)』を出版。中国から「反革命活動罪」で国外退去となり香港に居を移し、それから東京、バンコク(タイ)へ。1991年、ゴルバチョフ政権に対するクーデター時にモスクワへ向かい、『Buonanotte, Signor Lenin(おやすみなさい、レーニン)』にソ連崩壊を記録。

ずっとアジアのどこかに暮らしていた彼は、「ここ三十年間のアジア現代史を象徴して来た数々の出来事の克明な描写がなされている」(<飯田さんの文章の丸写し)『In Asia(アジアにて)』を1998年に出版。

『Lettere contro la guerra(反戦の手紙)』の出版は2002年3月。2004年7月28日深夜、逝去。ヒマラヤに長く暮らしていたテルツァーニは、最後の月日は「自分の真の、最後の愛(の対象)」であるイタリアのアペニン山脈の小さな村で過ごした。遺作は『Un altro giro di giostra(メリーゴーランドのさらなる一周)』。

「テルツァーニ賞」についてはウーディネ市の市長さんが「市長が語る我が町観光自慢」で自慢して(?)いる。
http://www.japanitalytravel.com/back/shicyo/2005_05/05.html
ウーディネの町では有名なイベントも数多く開かれます。……4月末に開かれるのが極東映画祭Far East Film Festivalです。ヨーロッパでは最も大きなアジアの大衆映画祭で、……この5月には、昨年亡くなったテルツァーニ(世界の大陸を回って文化を追い求めた人です)にちなんだテルツァーニ賞Premio Terzaniが開かれます。

※この記事は

2006年10月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 00:30 | Comment(2) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
拙訳、反戦の手紙のご紹介、ありがとうございます。そうですか、彼女にテルツァーニ賞が与えられましたか。イタリアに暮らしながら、ぼんやりしておりました。やはり、言論に対する弾圧なのでしょうか。勇気ある発言者の損失は、つらいことですね。イタリアではテルツァーニの言葉が死後、さらにその響きを強めています。心強いことです。
Posted by 亮介 at 2006年10月13日 03:35
亮介さん
コメントありがとうございます。「北朝鮮核実験強行」の報道と、ポリトコフスカヤ殺害の報道を読んでから、『反戦の手紙』を再読、こんなに静謐で明晰な言葉を読んでいるのに、自分の言葉が出てきません。

「いまや世界は変わってしまった。そこには原則がひとつもない。あるのは算段ばかりだ。」
2002年1月15日の「デリーからの手紙」(pp.175-176)

ポリトコフスカヤ殺害の理由と目的が何であれ(たとえそれが「現金強奪目的の武装強盗」であったにせよ)、彼女が何かを新たに書くことは、今後もう二度とない、という事実には変わりなく、そのことだけを見ても、あまり大きなことです。
Posted by nofrills at 2006年10月13日 16:41

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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