kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年02月15日

引き続き、バーレーン #Bahrain

"Posted 95 days ago" とかいう感じだが、シリア情報のSyriaDayofRageのアカウントで下記の写真。
Owly Images

これ、画面の左がトリミングしてあるけれど、残されている部分からわかるように、バーレーンの写真。Googleの画像検索経由で:


写真クレジットの "John Moore/Getty" で検索するとたくさんのページが出てくる(写真家は超有名な人。ピュリッツァー賞取ってる)。バーレーンでは例えば下記のような仕事がある(2011年2月):
http://www.guardian.co.uk/artanddesign/gallery/2011/feb/24/john-moore-photojournalist-bahrain

この写真集、2枚目の「丸腰であることを示す男2人と対峙する装甲車」の写真で、右奥に見えているのが「真珠広場のモニュメント」だ。バーレーンの政権(王制ではなく首相の長期政権)に対する抗議のシンボルとなったこのモニュメントは、バーレーン政府によって、破壊された。抗議が始まって1ヶ月と少し後、3月18日のことだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pearl_Roundabout#Demolition

その破壊されたモニュメントが、抗議行動開始から1年を迎えるにあたり、Twitter上で復活している。バーレーンの抗議行動参加者のアバターに、「真珠広場に戻ろう」というメッセージを表すTwibbonとして出現している。前のエントリーで触れた「ザイナブさんの逮捕」は、その「真珠広場に戻る」ときにおきた。ここでアバターの画像をお借りしたナビール・ラジャブさんも、14日に広場に向かっているときに逮捕されたようだ。

現地、ネット環境あまりよくないようだが、TwitterでBahrainで検索すると継続的に英語とアラビア語での投稿が確認できているので、完全に切断されているわけではないのだろう。(昨年も、抗議行動始まって数日で「ネット切断」といわれていたが……。)

さて、こういう状態の中、はてなブックマーク経由で次のような記事を見た。

http://lang-8.com/37125/journals

Lang-8は語学学習のSNSで、「ランゲージ・エクスチェンジ」をオンラインで実現するサイト。日記の添削という形で、ユーザー同士がお互いに言語を「教え合いっこ」するのだ(たとえば私が誰かの日本語を添削し、その誰かが私の英語を添削する、というようなイメージ)。

バーレーン在住のMakkiiさんもこのサイトのメンバーだ。アラビア語、英語を使い、日本語は学習中であるという(「学習中」で想像するよりはるかに「レベル高い」かもしれない)。

彼はここで、バーレーンでの日常生活を綴り、抗議行動を綴っている。(抗議行動も日常生活の一部だ。)

12月にザイナブさんが逮捕されたときのエントリもあるし、その前に当局の使用した催涙ガスで赤ん坊が死んでしまったことも報告している。1月も、歌を紹介したり、子供たちの絵を紹介したりしている。そして2月、13日と14日、彼は抗議行動に参加し、警察に催涙ガスを浴びせられ(そしておそらく追われて)、またモールに行こうとしたところを危険だと止められ親切な人にかくまってもらったりしたことを綴っている。

この状況でも、淡々と「添削」が続けられている。彼がLang-8を使い続けている第一の理由はその「添削」にあるのだろうし、この異常な緊張感の続く中、「自分がアップした日本語の文章を誰かが添削してくれる」という何気ない日常が彼にもたらすsense of normalityはきっと大きなものに違いない。ちょうど昨年3月15日ごろ、うちらが東京で、「フランス人が国外に退避した」、「華僑の人がやってる本格中華の店がずっと臨時休業している」、「店にトイレットペーパーがない」、「店にパンや米や牛乳がない」といった「異常事態」(この程度で「異常」なのは、積雪3センチで「大雪」扱いになるのと似ていて、なんだかなー、とは思うが)の中で、ふと見つける「何ら異常のない日常」――天気予報の人の口調とか、駅前の惣菜屋でのおばちゃんの「あら、今日もうメンチ終わっちゃった?」、「ごめんねー、明日またこしらえるから」というようなやり取り――に、どれだけ「癒された」ことか。「通常通り」を続けられることというのは、blessだ。バーレーンでLang-8を使っている彼が、添削された文を見て「日常」を感じて、足元を固めてくれますよう。(私はLang-8は使っていないので、ここで祈るしかできないけれども。)

さて、バーレーンの14日の様子は、Storyfulに「まとめ」られている。マナマ以外の村は、政府治安当局がやってきて人々が村の外に出ないようにしている(真珠広場の抗議行動に参加させないようにしている)などの報告が上がっている。
http://storyful.com/stories/1000021701

そして、唐突だがこのエントリの最初の写真。

少し探したら、最初に掲載されたメディアの記事のひとつと思われるページが見つかった。
http://photoblog.msnbc.msn.com/_news/2011/02/21/6101022-in-bahrain-ongoing-protest-in-pearl-square-is-countered-by-pro-regime-rally

2011年2月21日のMSNBCの写真のページ。キャプションとクレジットは:
John Moore / Getty Images

Hoor Hussain, 6, holds a poster with other anti-government protesters at the Pearl roundabout on Feb. 21 in Manama, Bahrain. Demonstrators continue to fill the square in a daily protest while opposition leaders hold talks with the government on the weeklong uprising.

Poster(プラカード。ホワイトボードのようなものかもしれないが)は、明らかに、米国人か英国人か誰かが書いたものだろう。大文字の使い方とか、筆跡から見て。

少なくとも、これを持って立っている6歳の子の字ではないだろう。

いや、実は最初、画像のサイズを小さくされ、jpegの圧縮率も高くなっているようなものを見て、「プラカードの文言は切り貼りではないか」と疑ったのだ。このMSNBCの写真を見ると、切り張りではないように見えはするが。

何か、そんなことばっかりが気になる。

そもそも、このエントリ最初のSyriaDayofRageのアカウントでの投稿の写真では、なぜこの写真、左側をトリミングしてあったのだろう、とか。

事態は、それどころではないのだけれども。

BBC Newsのトップページ、15日早朝(日本時間)のキャプチャ:

※この記事は

2012年02月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼