kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年01月30日

13の鐘と「追悼行進」

俗に、「ファースト・アルバムの1曲目は、そのアーティストのすべてを語る」みたいなことが言われる(というか、言われていたことがあった)。映画『オーシャンズ11』シリーズのサントラなどの仕事があるベルファスト出身のDavid Holmesのファースト・アルバム(1995年)の1曲目、No Man's Landは、教会の鐘の音と心拍のような音と、鉄格子か鉄のドアを乱暴に閉めるような音で始まる。おそらく弔鐘であるその鐘の音は、13回、鳴る。

This Films Crap Lets Slash the SeatsThis Films Crap Lets Slash the Seats
David Holmes

The Holy Pictures Let's Get Killed

by G-Tools


13という数字にこの稀代の音楽家が何をこめたのかは私は正確には知らない。しかしNo Man's Landという曲名と13という数字で想起されるのは、これだ。


* a CC photo by SBC9 (CC BY-NC-SA 2.0)

写真に撮影されたモニュメントは、Google map (street view) では、ここにある。奥にフリー・デリーのゲーブルが見える。1972年1月30日当時、この通りのこの辺にバリケードがあり、バリケードの向こうは「フリー・デリー」、つまり英治安当局にとってのno-go areaだった。銃撃は、このエリアで行われた。


大きな地図で見る

Google Street viewで見ると確認できるが、通りの向こう側には、オペレーション・モーターマンのミュラルがあって(この作戦についても書かねばならないことがあるのだが、書けていない。そういうのが10〜20項目くらいある)、その向こうはThe Museum of Free Derryだ。サイトを開くと、1972年1月30日の「公民権運動」のデモ隊の歌が迎えてくれる―― "we shall overcome"。今ミュージアムになっているこの建物の前では2人が殺され5人が負傷させられた
http://www.museumoffreederry.org/

当日のルート、13人が射殺された場所は2010年6月、サヴィル報告書が出たときのガーディアンのインタラクティヴがわかりやすい。
http://www.guardian.co.uk/uk/interactive/2010/jun/10/northern-ireland-bloody-sunday-interactive-map

で、英軍側のでたらめが公式の事件報告となったことに対し、射殺された人びとのご遺族が中心となってデリーの(ナショナリストの)人々が真相究明を求め、それが1998年にようやく実ってサヴィル・インクワイアリが開始されたことは何度も書いている通りだが、ご遺族や負傷者や当日のデモ参加者、支援者といった人々は、1972年1月30日の公民権要求デモのルートをたどる「追悼行進」を行ってきた。毎年のそのデモで人々は殺された人々の顔写真を掲げ、彼らが武装などしていない、英軍を攻撃などしていない平和的なデモの参加者であったことを認めるよう、つまりjusticeを求めてきた。

2010年6月のサヴィル報告書の公表で、ジェリー・ドナヒーの「ネイルボム」を除いては、英軍の報告はまったくの虚偽であり、遺族らの言う通り、彼らは武装していなかったということが認められた。

これをもって、デリーの「ブラッディ・サンデーの家族たち」は、彼らが中心となって毎年行ってきた「追悼行進」を、事件から39年となる2011年で終わりにする、と合意した。

しかしながら、2012年の今年も「追悼行進」を行うべき、という遺族もいた。実際に非武装の民間人を殺した人物(発砲した兵士)が特定されているのに、法の裁きを受けずにいるのはおかしいという考えと、国家の暴力によって殺されて濡れ衣を着せられているのは、デリーの血の日曜日の13人だけではないわけで、デリーの13人の件が「決着」したからといって英国政府に対する抗議の意思表示をやめるのはおかしいという考えがコアにある。(一方で、「英国政府の謝罪」と「これまで真相とされてきた虚偽の報告書の撤回」だけで十分、という考えの人たちもいる。)

「行進はもう終わり」という人々と、「行進を続けるべき」という人々との間に意見の対立はあったが、深刻な亀裂というものには至っていないようだ。互いに考え方が違うということを尊重する、という姿勢が示されている。

その詳細については別のエントリにしたいが、ともあれ、2012年の今年の「ブラディ・サンデーの日」(1月最終日曜日=29日)は、ロスヴィル・ストリートのブラディ・サンデー・メモリアルのところで遺族・親族や市民たちの追悼の集会が行われ(数百人規模だったそうだ)、その後、有志のみで行進が行われた。

その記事:

Bloody Sunday victims remembered
Last Updated: Sunday, January 29, 2012, 17:53
http://www.irishtimes.com/newspaper/breaking/2012/0129/breaking22.html
※掲載はアイリッシュ・タイムズだが中身はPA。
And while many of the families are pressing for the prosecution of the soldiers involved, most of them decided to end the annual march they led for 39 years, arguing they had been vindicated by the Saville findings.

Relatives of those killed and wounded attended the memorial service, where both Protestant and Catholic clergy were involved.

Later, Kate and Linda Nash, whose teenage brother William was killed on Bloody Sunday, opted to continue the march.

Kate Nash said the march should remain an annual event to help lobby for other bereaved families seeking justice. ...


Bloody Sunday victims remembered
Sunday, 29 January 2012
http://www.u.tv/News/Bloody-Sunday-victims-remembered/8efc6df9-a0ae-4495-a950-9065cc354ed9
A memorial service was held at a monument in the Bogside on Sunday and afterwards some families took part in a march.

... some families who are pressing for the prosecution of the soldiers involved, said they would continue to march.

Kate and Linda Nash's brother William was one of those killed on Bloody Sunday.

Kate Nash said the march should remain an annual event to help lobby for other bereaved families seeking justice.

"I am delighted with the turnout," she said.

"But even if it had just been myself and my sister, we would still have a right to march. That is democracy.

"We are going to continue to march for prosecutions, but beyond that, this is a unique march and it should continue for all those who are seeking justice."


ロスヴィル・ストリートのブラディ・サンデー・メモリアルは、下の方には殺された13人と1人(事件時の負傷が原因で数ヵ月後に死亡)の名前が刻まれているが、上のほうはこうなっている。NICRAは北アイルランドの公民権運動の担い手となった組織名。


* a CC photo by SBC9 (CC BY-NC-SA 2.0)

※この記事は

2012年01月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼