「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年01月29日

カメラの目の前で

結局、あいかわらず国家の治安当局による暴力が、人々の生命を奪い、身体を傷つけ続けるという状況は続いている。それも、カメラとインターネットのあるところで、カメラの目の前で。

2011年12月18日 暴力装置。
http://nofrills.seesaa.net/article/241186946.html

上記は、エジプトについての文章の一部だ。

この「カメラの目の前で」は、実は私が書いているほど、また「一般」に言われるほど、意外なことでも例外的なことでもない。(かといって、「普通」ではないが。)

1972年1月30日、午後4時過ぎ。デリーで銃撃が始まったとき、そこには何台ものテレビカメラがあった。



この記録映像の前半にあるように、この日の公民権デモは非常に規模が大きく、これを取材するために多くのメディアがカメラマンと記者をデリーに送っていた。

そのひとりの文章が、週末、米オンライン媒体のハフィントン・ポストに掲載された。

Struggle Through Decades to Overturn Massacre Lies
Posted: 01/27/2012 2:57 pm
http://www.huffingtonpost.com/david-tereshchuk/four-decades-to-overturn-_b_1231967.html

That chilly Sunday afternoon I took cover behind a rubble barricade in the Bogside district of Londonderry while members of the British Army's crack Parachute Regiment fired a total of 108 high-velocity rounds that killed 13 members of a demonstrating crowd instantly, and injured more than a dozen others, one of whom died within a few months. Four of the dead, all under 21 years of age, were killed within 50 feet of me.

All of us journalists present got an early taste of official lying. An army officer briefing us soon afterward said his unit had been attacked by gunmen (although there were none, we were sure). "We came under fire from seven snipers" said the officer. "Of whom we killed 13", was the muttered interpolation from my colleague Simon Hoggart of London's The Guardian ...

ガーディアンについてのこの記述は事実の一部しか伝えていない。当時、ガーディアンが紙面でどう伝えたかを、2010年のサヴィル報告書公表時にまとめた記事がある。サイモン・ホガートの記事もある。
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/jun/14/bloody-sunday-guardian-archive

問題があるのはこのホガートではなく、サイモン・ウィンチェスターだ。彼も現場で銃撃をファーストハンドで目撃していたが、彼の最初の記事は軍の発表を鵜呑みにしたものだった。単にそういう報道をした、というばかりでなく、結果的にであるにせよ「あのガーディアンがああいうのだから」という予断を英国民に生じさせた。(その点、本人が後に後悔を語っている。)ブラディ・サンデーの真相究明まで40年近くもかかったという事態において、メディアの責任は、語られている/語られていないより、大きかった。
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/jun/15/derry-bloody-sunday-northern-ireland

けれども、軍の説明がおかしいということに気づいたのも現場にいたジャーナリストたちで、Huff Poの記事を書いているDavid Tereshchukは、当時仕事をしていたテムズTVのThis Weekという時事番組で、ほんとにギリギリのところで、軍の説明(ウィジャリー報告書)にツッコミを入れている。

ほかにもデリーの人から信頼され、「これを伝えてほしい」と話を聞かされた英国のジャーナリストは何人もいる。当時ITV(現BBC)のピーター・テイラーは、事件が起きてすぐに現地入りし、英国のジャーナリストなど門前払いされるのではないかと思っていたがデリーの人々には温かく迎えられ、率直な話を聞けた、ということを著作に書いている。

David TereshchukのHuff Po記事は、そうして始まった「Bloody Sunday事件の真相究明の取り組み」について、順を追って説明してくれる。当時15歳で事件の現場にいたドン・マランのことも書いてある(彼が発掘した、ウィジャリー調査委員会で使われなかったナショナリストの人びとの証言記録が、映画「ブラディ・サンデー」の基となった)。そして、Tereshchukとマラインの事件を語るドキュメンタリー映像も、Huff Po記事にエンベッドされている。

※この記事は

2012年01月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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