「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年01月28日

ただひとり、完全に無実が認められていないジェリー(ブラディ・サンデー事件)

ポール・グリーングラスの映画『ブラディ・サンデー』(2002年)が作られてから、ちょうど10年だ。

B0002886TWブラディ・サンデー スペシャル・エディション [DVD]
ポール・グリーングラス
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2004-07-23

by G-Tools


この映画、2002年のベルリン国際映画祭で金熊を取っているのだが、この年は日本のアニメ映画と同時受賞で、日本国内ではそのアニメ映画はものすごいもてはやしようだったが、『ブラディ・サンデー』は完全に無視(劇場公開もされず、ビデオ/DVDスルー)という、すべてが馬鹿馬鹿しくなるような状況だった(別にそのアニメ映画が悪いと言うのではない)。DVD化されたこの作品はかなりヒットしたようで、何度か再プレスというか、廉価版が出るなどもしていたが、今は基本的に中古じゃないと手に入らないらしい。何をやってるんだか。

トレイラー:



さて、1972年1月30日をドキュドラマ調に描き出したこの映画は、3人にスポットライトを当てている。あの日のデモ行進を主催した公民権運動の中心的人物であるアイヴァン・クーパー議員(ジェイムズ・ネスビット)、デモ隊を銃撃した英軍の兵士、そしてデモ参加者で17歳のジェリー・ドナヒー。

デリーのボグサイドの子であるジェリーは、宗派としてはカトリックで、IRAの青年部の一員でもあったそうだが、当時付き合っていた女の子はプロテスタントだった。映画で描かれているが、前の日にジェリーと密かに会っていた彼女は1月30日のことを心配する。当時、プロテスタント専制の北アイルランド自治政府の圧制下、公民権運動のデモは、事実上、もれなく「非合法 illegal」だった。ジェリーは「大丈夫だよ、心配ないって。平和なデモだから」と彼女を安心させる。しかしその「平和なデモ」に対し、英軍は発砲した。銃撃された13人がその日に死亡、さらに13人が負傷した(そのうちのひとりが4ヶ月以上後に絶命したが、この人はデモ参加者ではなく通行人だった)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bloody_Sunday_%281972%29#Narrative_of_events

銃弾を受けたジェリーは、周囲にいた人たちによって安全な場所まで運ばれた。そこで応急手当をする際、人びとは家族に連絡するために身元を確認しようとポケットを探ったが、特に何も出てこなかった。死亡宣告した英軍の軍医も同様で、彼は非武装だったと証言している。しかし、絶命した彼の遺体の検死を行った警察は、彼のポケットにネイルボムが入っていたと報告した。(英軍も同じ結論を出している。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Gerald_Donaghy

1972年4月、銃撃から10週間とか11週間でまとめられた事件の調査報告書(ウィジャリー報告書)では、英軍の言い分を丸呑みしていた(これは、ジェリー・ドナヒーのケースに限らず、だが)。

「ポケットの中には別に何も入っていなかった」と医療従事者や軍医が証言しているにも関わらず、この17歳の犠牲者はネイルボムを隠し持っていたことにされてしまっていた。(ジェリーだけでなく、「英軍は銃撃を受けたので反撃したのである」といった嘘ばかりが公然と《事実》として認められていたのだが。)

保守党政権の時代が終わり、労働党政権となったあとの1998年、ようやくのことで開始された真相究明の取り組み(サヴィル・インクワイアリ)では、事件被害者の家族らは嘘八百を並べ立てたこの「ウィジャリー報告書」を覆すことを期待していた。真実・事実が語られ、それが検証されて証明されれば、「ウィジャリー報告書」が滅茶苦茶だということはおのずから立証される。

紆余曲折の末、2005年にやっとすべての証言の聞き取りを終えたサヴィル・インクワイアリは、当初2006年に報告書をまとめて発表する運びになっていたが、これが遅れに遅れ、ほんとうに、やっとのことで「ウィジャリー報告書」を否定する「サヴィル報告書」が出され、英国の政治トップ(首相)が議会で謝罪したのは、2010年6月だった。
http://nofrills.seesaa.net/article/153384489.html

しかしこの「サヴィル報告書」でも、「ジェリー・ドナヒーのネイルボム」については否定されなかった。報告書は「ジェリーはネイルボムを所持していたと思われはするが、いずれにせよ、銃撃時、英軍に対する脅威ではなかった」と結論した。

そのことが今なお、ドナヒー家の人々に苦い思いをさせ続けている。

Family vow to clear Bloody Sunday victim's name
27 January 2012 Last updated at 09:29 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-foyle-west-16755045
The Saville report found that Gerald Donaghey was "probably armed with nail bombs but was not a threat at the time that he was shot".

The 17-year-old was a member of the IRA's youth wing, but witnesses said he did not have any bombs on him.

His family said they will fight to clear his name.

...

Gerald Donaghey's niece Geraldine Doherty said her family are unable to move on.

"For us, it's still not finished. We have to keep fighting on and do whatever we have to do to get Gerald's name cleared," she said.

"I'll highlight Gerald's case at every opportunity. If it takes another 38 years, I'll do it. We're not going away."


26日のこのブログにURLだけ貼った(そして本文書いていない)PFCのサイトに掲示されている「ブラディ・サンデー週間のイベント日程表」にも、次のように書かれている。
http://nofrills.seesaa.net/article/248702863.html
http://www.patfinucanecentre.org/cases/bs/bs2012.html
Of course, the issue of Gerald Donaghey's innocence remains crucial and indeed will feature centrally in the 40th Anniversary programme of events. The finding that he was 'probably' carrying nail bombs is unbelievable and is palpably wrong, and one that we simply do not accept.

(この文書、「わかってる人」に読ませることが目的だから、この調子でいきなり固有名詞が出てきたりして、非常に読みづらい。)

2010年6月の「サヴィル報告書」によって、明確に「一区切り」がつけられてから、新たに言及されるようになった事件もある。ブラディ・サンデーと同じ性質で、ブラディ・サンデーより前に起きたバリーマーフィー事件(1971年8月、インターンメント導入時にベルファストで10人が殺害された)などだ。

しかし、「ブラディ・サンデー」自体が、実はまだ「終わって」はいない。

※この記事は

2012年01月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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