「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年01月27日

この人の訴えを聞いているのは誰なのだろう、という(エジプト、「革命」から1年の写真・映像などまとめ)

The (now dissolved) NDP National HQ مقر الحزب الوطني المنحل
* a CC photo by Hossam el-Hamalawy (CC BY-NC-SA 2.0)

26日にアップロードされたホッサムさんのこの写真を見て、一瞬ポカンとしてしまった。この写真はこの1月25日、昨年の「革命」のときに燃やされた、当時の与党(ホスニ・ムバラクの仕切っていた)NDPの本部の建物のところで撮影されたものだ。

NDPの本部の建物が燃やされたときの状態(すすけたまま)で放置されているというのは知っていたが、まさかそのあの巨大な建物の足元の車の残骸までそのままとは。川沿いの一等地に!

こういうのは、心理的効果のための放置(組織の「残党」がいても気力が出ないようにするための「さらし」)なのかもしれないが、いいとか悪いとか何か言いたい感想があるとかではなく、ただポカンと……。物言わぬ役立たずの金属たちは、ただ錆びゆくまま。

そんなことを思いつつ、1月25日の「革命の日」のホッサムさんの写真を眺め、そして23日の議会スタートの日の写真へと遡る。
http://www.flickr.com/photos/elhamalawy/sets/72157628998694523/with/6750760717/

セットの中に、「革命」で治安当局に命を奪われた人のお父さんと思しき高齢の男性の写真がある。この人の訴えを聞いているのは誰なのだろう(誰かいるのだろうか。国家による暴力で命を奪われた若者の汚名をそそぐことを求める父親……。

1972年1月30日の北アイルランド、デリーでの英軍による発砲事件で射殺された人びとの家族の訴えが聞き届けられたのは26年後の1998年、その調査の結果が公表されたのはさらにずっと遅れて2010年6月だった。英軍の「武装勢力を殺した」という嘘を覆し、殺された息子たちが非武装だったという事実が英国の首相の口から宣言されるのを見届ける前に他界した親も多い。(事件被害者の親御さんは、2011年7月に最後のおひとりが亡くなった。)

القصاص القصاص .. ضربوا ولادنا بالرصاص
* a CC photo by Hossam el-Hamalawy (CC BY-NC-SA 2.0)

「革命」の始まりから1年となる25日、カイロのタハリール広場からの報告には、そういった「国家による暴力は現在進行形である」ということに触れたものは、正直、ガクっとなるほど少なかった。喜ばしいことの記念日なので、お祭りムードでよいのだろう。だけど、基本的に、何も終わっちゃいないのだ。

NYTの「未完の革命を振り返る」というビデオ&オーディオ・スライドショーが、とても丁寧に作られていた。西洋化された改革派の青年(流暢な米語をしゃべる)、「処女検査」の被害にあい、ただ一人軍当局を告発した勇気ある女性(彼女については前も書いたことがある。BBCの記事の紹介だが)、非常に保守的なイスラミストの青年という3人の、思想信条も立場も異なる20代の若者のインタビューをコアに、1年前の写真のスライドショーを組み合わせて、事態を立体的に描き出している。
http://video.nytimes.com/video/2012/01/25/world/middleeast/100000001310958/reflections-on-an-unfinished-revolution.html?smid=tw-nytimes

これらを含めて、"「革命」の始まりから1年" という主旨で、写真たっぷりの「まとめ」のページを作成した(写真はリンク先というか元のページで、大判で見ていただきたい)。音楽とかも入れていたら妙にかさばってしまったが、自分的には「ジャンル違い」のヒップホップなども入れてある(「もっとほかに、こんなのあるよ」ということをご存知の方いらしたら、「NAVERまとめ」のページでコメント欄で教えてください)。

こうやって、1年を振り返りつつ、ムスリム同胞団がやたらと多い国会のもとで、「国家による暴力」の解明と責任追及が少しでも早くなされることと、(Twitter上でフォローしてたりやり取りがあったりしたエジプトの女性たちのことを思い浮かべながら)根本的性差別社会が少しでも良い方向に変わってくれることを願う。



※この記事は

2012年01月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 06:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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