「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2012年01月26日

「ブラッディ・サンデー」40年を前に

北アイルランド、デリーでは既に、ブラディ・サンデー事件の記念週間が始まっている。1972年1月30日の事件から、今年でぴったり40年になるのだが、昨年まで開催されてきた「あの日と同じルートを辿る行進」は今年は開催されない。(そのことについては、書ければ改めて書きたい。)ただ、例年と同じく、レクチャーなどのイベントは行われる。

その日程表は、パット・フィヌケン・センターのサイトに上がっている。
http://www.patfinucanecentre.org/cases/bs/bs2012.html

この中で言及されている書籍は下記。エイモン・マッカンの本は2005年にサヴィル・インクワイアリの証言聞き取りが全て終了した段階で出されたもの(このときは「2006年はじめにも最終報告書が出される」ことになっていた。実際にそれが出たのは2011年6月だ)。ジュリアン・キャンベルの本はこれから出るもの。

0745325106The Bloody Sunday Inquiry: The Families Speak Out
Eamonn McCann
Pluto Press 2006-01-28

by G-Tools


1907593373Setting the Truth Free: The Inside Story of the Bloody Sunday Justice Campaign
Julieann Campbell
Liberties Press 2012-04-15

by G-Tools


これらのほか、今年はもう1冊、下記の本も出版が予定されている。

1849541493Bloody Sunday: Truths, Lies and the Saville Inquiry
Douglas Murray
Dialogue 2012-06-12

by G-Tools


日程表最後のイベントになっているLost Youthという音楽アルバムについては:
http://lostyouth-palestine.com/

フィジカルのCDはアイルランドじゃないと買えない感じだけど、デジタル・ダウンロードはある。試聴も。
http://www.allcelticmusic.com/music/964a9168-fe3f-11e0-b0f1-12313d02ceaa/Lost%20Youth%3A%20Songs%20of%20Solidarity.html

※書きかけ

※この記事は

2012年01月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:57 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。