kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年10月04日

あのジャーナリストの死の真相は。

You will have seen the reports this morning that two British soldiers are missing. Every effort is being made to find them. I also want to pay tribute to the ITN journalist, Terry Lloyd, who lost his life while doing his job in a very dangerous region of Iraq.

-- From the Briefing given by the Secretary of State for Defence, Geoff Hoon, London, Monday 24 March 2003
http://www.uknow.or.jp/be/ukview/speeches/speeches/SP000246_1__e.htm


2003年3月、「イラク戦争」が開始された直後に、イラク南部の砂漠でテリー・ロイドというジャーナリストが死んだ。

「イラク戦争」では、大勢のジャーナリストが軍と行動を共にするかたち、つまり「エンベッド(embedded)」で取材を行なったが、ロイドはエンベッドでないかたちでイラクに入った。エンベッドでないかたちでイラクに入ったジャーナリストは、2003年3月には、ほとんどいなかった。

ロイドはベテランの戦場記者。英国の民放、ITVでのレポートで広く知られたジャーナリストだった。1988年のハラブジャの大量殺戮のあとも現地に入ってレポートしていたし、ブコバルの集団墓地(というか死体埋め立て所だよね、あれは)発見時にも現地からレポートしていた。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2877767.stm

イラクに入ったばかりのロイドの行方不明が伝えられたのは、2003年3月23日だった。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/wales/2877711.stm

22日、ロイドはカメラマン2人と通訳者の計4人でバスラ近くの軍の検問所を通過し、村に入った。そのあとをイラク軍がつけてきており、そのイラク軍に対して米軍が攻撃。

「テリー・ロイド行方不明」が報じられてすぐ、ロイドの死亡が確認された。カメラマン(フランス生まれ、またはフランス人)と通訳者(レバノンの人)はしばらく行方不明のままになっていたと記憶している。4人の一行の中で生き残ったのは、結局、カメラマン1人。

生き残ったカメラマンは、イラク軍ではなく連合軍からの攻撃だった、自分はとっさに道路の側溝に転がり込んだために助かった、と述べている。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/wales/2877711.stm

ロイドの死は「悲劇」として扱われた。私の記憶では、「戦争反対」を主張していたデイリー・ミラーはもちろん、開戦が決まるや一気に「我々は軍を支持する」というムード一色となったBBCも、ロイドについてはトップ扱いで報じていたと思う。(当時はテレグラフはもちろん、ガーディアンも見る気にならなかったので、そのへんがどう報じていたかはわからない。)

しかしその死については明らかになっていないことが多い。遺族やジャーナリスト連合やITNはロイドの死についての情報を求めてきたが、3年を経過してもなお情報は明らかになっていなかった。

それが今月、ようやく明らかになりそうだ。火曜日(10月3日)から正式に審問(Inquest)が開始された。(これって人が亡くなって何年もたってから行なわれるものじゃないよね。)

審問の開始には保守党のデイヴィッド・キャメロン党首@「私、環境に優しいんで自転車通勤です(でも後ろからお供の車が)」(<長いけどこれでフルネーム扱いということにしたい)の働きかけが大きく作用したらしい。

Terry Lloyd inquest begins Tuesday
Tara Conlan
Friday September 29, 2006
http://media.guardian.co.uk/site/story/0,,1884242,00.html
The inquest into the death of ITN reporter Terry Lloyd will finally take place on Tuesday, following help from Tory leader David Cameron.

...

For months, the union and Lloyd's family were told by coroners that the MoD had not prepared its report to the coroner. They were told then by the MoD they had given the report to the coroner but the coroner would not release the information. They were then further "fobbed off" with various excuses, according to the NUJ.

It was only when Mr Cameron wrote to the coroner's office on the NUJ and Lloyd's family's behalf that information emerged and the inquest was scheduled.

Mr Cameron's constituency covers RAF Brize Norton, where the bodies of British military personnel who have been killed abroad are normally repatriated to.

なるほど、保守党のデイヴィッド・キャメロン党首@「私、環境に優しいんで自転車通勤です(でも後ろからお供の車が)」(<やっぱり長すぎるのでこれはやめることにする)の選挙区にはブライズ・ノートン空軍基地があるのね。なるほど。英軍兵士だけでなくテリー・ロイドの遺体もそこに運ばれているはずだから、その選挙区の議員の働きかけでcoronersが動いた、ということで理解しておけばいいのだろう。

ブライズ・ノートン空軍基地のある地域の議員が保守党党首なのは必然というより偶然だろうが、いずれにせよ、こういう「大物」が「圧力」をかけてやっと、というのはなぁ。。。

関連記事はてんこもり状態だ。とてもじゃないが読みきれない。まあとりあえずガーディアンとBBCといういつものパターンで行くけれど、ガーディアンだけでかなりの量になる。

こういうときはたいがい、一通り終わってからの記事を読むべきなのだ。そのほうが効率がよい。しかし読まずにはいられない。

Details on ITN man 'were held back'
http://www.guardian.co.uk/uklatest/story/0,,-6122709,00.html
はPAの記事(ガーディアンの記者が書いたものではないのだが、ものすごくガーディアンっぽい)。ロイドの雇用主であったITNの当時のトップが証拠として述べたことのまとめ。要点としては:
Former ITN chief executive Stewart Purvis said despite numerous requests to the Defence Secretary, the information they were given about what happened was "limited".

Giving evidence on the first day of an inquest into Mr Lloyd's death, Mr Purvis said that correspondents covering the war unilaterally, as opposed to being "embedded" with military units, were not given any information about troop movements despite requests from ITN.

Mr Purvis told the coroner's court at Oxford's Old Assizes that "the military did not wish to take any responsibility for unilaterals, to such an extent that in a sense they wouldn't even recognise their existence". He acknowledged that information about troop movements would have been important to a correspondent travelling through a war zone in order to avoid getting caught in any crossfire, but he said: "It takes two parties to achieve that."

He said ITN bosses were extremely cautious about safety and all reporters were told to wear flak jackets and sent on safety courses.

But he (=Newscaster Sir Trevor McDonald) denied that Mr Lloyd was rushing in order to be the first journalist on the scene.

この最後の、サー・トレヴァーのと対比されるべきは、BBCやテレグラフあたりでやってるhe was keen to get goingとかいう見出しだろうな。。。ITNとしては「彼は安全を無視して飛び込んでいったわけではない」という主張で、「そもそも軍はエンベッドではない記者には軍の動きについて情報を与えようとしなかった」と言っている。

次の記事もその流れで読むべきだろう。
British government didn't want journalists in Baghdad, says ITN chief
Jason Deans and agencies
Tuesday October 3, 2006
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1886619,00.html

「エンベッドでなければ取材できない戦争」というのは、2003年3月、4月にさんざん聞いた話だ。でも私はほとんど忘れかけていた。その後の「混乱」のなかで、幾人ものフリーランスのジャーナリストの人たち(英国の記者も米国の記者も日本の記者も、イラクの記者も、あるいはイタリア、フランスなどからも)が書いたり映像で伝えたりしたものを、かなりたくさん見てきたためだと思いたい。

それから注目すべきは:
US military absent from Lloyd inquest
Leigh Holmwood
Tuesday October 3, 2006
http://media.guardian.co.uk/site/story/0,,1886593,00.html

ロイドの一行を殺した攻撃を行なった米軍の軍人は、インクェストで証言しないというのだ。英国の当局にはその権限はない、と。しかしAndrew Walker, the assistant deputy coroner for Oxfordshireは、米軍兵士からのステートメントを得てそれを読み上げるための努力はする、と。

ロイドは英国人で、しかもその遺族や同僚や上司たちが、保守党党首という立場にある人に働きかけることができた。それでもこれだ。

「コラテラル・ダメージ」として片付けられたイラクの人たちはキャメロンを動かすことすらできない。武力行使を受けた側の、軍人でも政府の役人でも政治家でもない人たちの「コラテラル・ダメージ」は、ひたすら放置プレイだ。むろん殺した側の心にも大きな傷を残す(ことが多い)。

さて、このmedia Guardian記事で気になる記述がある。(強調は引用者による。)
It is thought Lloyd died along with two colleagues, ITV News cameraman Fred Nerac and Lebanese translator Hussein Osman, as a result of shots fired in an exchange between US and Iraqi armed forces on the road to Basra on March 22 2003.

このas a resultだ。普通に英語として読めばわかると思うが、これはかなり曖昧な表現だ。回りくどい。なぜここがafter they got caught in shotsではないのか? あるいはbecause ofではないのか?

それはまず、ロイドらが死んだ/殺されたときの状況が、はっきりしていないからだ。客観的な記述として十分なほど、「イラク軍と米軍の銃撃戦に巻き込まれて撃たれた」ということは、現時点では、立証されていない。

それからもう1つ。

2003年9月にデイリー・ミラーが次のように伝えていたことも気になる。これはその後後追い報道がなかったので、事実ではないと確認されたか、あるいは何らかのほにゃほにゃがあったかのどちらかだろうと思うが、はっきりわからない。
http://nofrills.seesaa.net/article/24522299.html
ITN'S TERRY: SHOCK NEW EVIDENCE
AN Iraqi businessman told yesterday how ITN reporter Terry Lloyd was shot dead by a US helicopter gunship which blasted his civilian minibus.
ということで,「イラク軍と米軍の銃撃戦に巻き込まれて死亡」したはずのジャーナリストは,実は,肩を負傷して病院へ搬送される途中,乗っていた民間の車(ミニバス,イラク軍兵士も乗っていたそうですが)が米軍ヘリに攻撃されて,頭に致命傷を負って死亡した,との証言です。証言者のイラク人ビジネスマンは,仕事でそのミニバスに乗り合わせ,テリー・ロイドと話をしています。

ITNのジャーナリストだったテリー・ロイドはこのイラクの人に「私はロシアのジャーナリスト」と自己紹介したそうです。彼が取材をしていた南部(バスラ)は,英軍が侵攻していました。英国人だとはとても言えなかったのだろうと,証言者は語っています。

ヘリから民間の車を攻撃した個人が特定されれば,戦争犯罪に問われるそうです。


2004年の9月には、日本のニュース番組が次のように報じていたようだ。(私はこの番組は見ていないので、具体的にどう報じられていたかは不明。)
http://www.tv-asahi.co.jp/hst/contents/special/040913.html
イギリス、ITVのベテランジャーナリスト、テリー・ロイド。
その日彼は、イギリス軍の精鋭部隊を追ってイラク南部バスラ近郊に向かっていた。彼は検問所で米軍から銃撃を受け負傷。病院に向かう途中、米軍武装ヘリの機銃掃射で死亡。


このあたりのことが明らかになるのかどうか。



なお、テリー・ロイドの死についてのインクェストの記事は、
http://www.pressgazette.co.uk/
が最も早く最も直接的だろうと思います。プレス・ガゼットはNUJ(ジャーナリスト連合)のメディアで、いわば当事者なので。ただ当事者であることを計算に入れて読むべきですが。(でも「フリーランスのジャーナリストがそんな危ないところに行くからそういうことになる」とかいうのが基本にあるメディアの記事を読むよりは、ずーーーっと事実に近いはずです。)

※この記事は

2006年10月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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